女神が見守る歴史上の要衝の、壮大で繊細な絵画のような広場。
さあ、ここからは市内を散策してみましょう。まずは、冒頭で紹介したグラン・プラスです。
ベルギーの首都ブリュッセルを彷彿させる、フランドル地方独特の風情が漂うこの広場。でも正式名称は「シャルル・ドゴール広場」です。ロンドンから対独レジスタンスを呼びかけ、フランスを解放に導き、その後、フランス大統領となった故ドゴールは、実はリール出身なのです。
この広場に到着すると、まず壮大な絵画のような姿に圧倒されるでしょう。そしてよく細部を観察すると、繊細で愛らしい装飾や造形に目を奪われるはずです。この広場のほとんどの建物は、歴史文化財に指定されています。
「ヴィエイユ・ブルス(旧証券取引所)」、「テアートル・デュ・ノール(北の劇場)」はもとより、ゴット記者が働く『ラ・ヴォワ・デュ・ノール(北の声の意味)』紙の本社もここにあり、独特な三角屋根を見せています。
また「オテル・ベルヴュ」は、1765年にモーツァルトが泊まったことで有名なホテル。「フュレ・デュ・ノール(北のケナガイタチ)」は、欧州最大(8000平方メートル)の本屋さんです。
素敵な装飾を施した他の建物群も文化財。昔からこの広場には商人たちが集まり、様々な物が売られ、賑わってきたのでした。
でも、ここで広場の真ん中にすっくと立つ柱にご注目ください。「コロンヌ・ド・ラ・デエス(女神の円柱)」です。てっぺんの女神が何かを手にしているのが分かるでしょう。これは「ブットフ」(火縄竿)と呼ばれる道具です。大砲に発火するために使われました。
なぜ、こんなものを持っているのでしょうか?
実は“欧州の交差点”リールは軍事的要衝でもあり、何世紀にもわたる“国獲り合戦”の舞台となって、歴史上、フランスで最も軍事包囲を受けた街なのです。特にフランス大革命中の1792年には、反革命勢力のオーストリア軍に包囲され、悲惨な目に遭いました。
それでも、リール市民は英雄的レジスタンスに立ち上がり、戦い抜きました。女神はその勇敢さを象徴し、火縄竿を手に毅然として、今なおリールを守り続けているのです。
ベルギーの首都ブリュッセルを彷彿させる、フランドル地方独特の風情が漂うこの広場。でも正式名称は「シャルル・ドゴール広場」です。ロンドンから対独レジスタンスを呼びかけ、フランスを解放に導き、その後、フランス大統領となった故ドゴールは、実はリール出身なのです。
この広場に到着すると、まず壮大な絵画のような姿に圧倒されるでしょう。そしてよく細部を観察すると、繊細で愛らしい装飾や造形に目を奪われるはずです。この広場のほとんどの建物は、歴史文化財に指定されています。
「ヴィエイユ・ブルス(旧証券取引所)」、「テアートル・デュ・ノール(北の劇場)」はもとより、ゴット記者が働く『ラ・ヴォワ・デュ・ノール(北の声の意味)』紙の本社もここにあり、独特な三角屋根を見せています。
また「オテル・ベルヴュ」は、1765年にモーツァルトが泊まったことで有名なホテル。「フュレ・デュ・ノール(北のケナガイタチ)」は、欧州最大(8000平方メートル)の本屋さんです。
素敵な装飾を施した他の建物群も文化財。昔からこの広場には商人たちが集まり、様々な物が売られ、賑わってきたのでした。
でも、ここで広場の真ん中にすっくと立つ柱にご注目ください。「コロンヌ・ド・ラ・デエス(女神の円柱)」です。てっぺんの女神が何かを手にしているのが分かるでしょう。これは「ブットフ」(火縄竿)と呼ばれる道具です。大砲に発火するために使われました。
なぜ、こんなものを持っているのでしょうか?
実は“欧州の交差点”リールは軍事的要衝でもあり、何世紀にもわたる“国獲り合戦”の舞台となって、歴史上、フランスで最も軍事包囲を受けた街なのです。特にフランス大革命中の1792年には、反革命勢力のオーストリア軍に包囲され、悲惨な目に遭いました。
それでも、リール市民は英雄的レジスタンスに立ち上がり、戦い抜きました。女神はその勇敢さを象徴し、火縄竿を手に毅然として、今なおリールを守り続けているのです。