試合を決定づけられる選手だけが背負える「ヌメロ・ディエチ」。


ミランに復帰してから、ここまで公式戦7試合に出場。交代出場で出場時間も少ない彼が、ここからいかにして序列を上げていくか。写真下は背番号10時代の12-13シーズン。 (C) Getty Images
◇ケビン=プリンス・ボアテング:1987年3月6日生まれ ドイツ・ベルリン出身
2016年1月に2年半ぶりにミランに復帰したベルリン生まれのガーナ代表選手。バイエルンでプレーするジェローム・ボアテングは弟(異母兄弟)だが、あちらはドイツ代表選手である。
故郷のクラブ、ヘルタ・ベルリンでキャリアをスタートし、20歳でトッテナムに移籍。その後、ドルトムントとポーツマスを経て、2010-11シーズンにミランの一員となり、チームのスクデット獲得に貢献した。
高い身体能力と技術を活かしたダイナミックなプレーを持ち味とし、トップ下としての高い特性を有する彼は、12-13シーズンからは伝統あるミランの背番号10を継承する栄誉を授かった。
しかし翌シーズン、彼は1000万ユーロ以上ともいわれる移籍金を置き土産に、シャルケに新天地を求める。ここでステップアップするはずが、真価を発揮することはできず、15年5月には首脳陣の信頼を失って契約解除。今冬にミランに出戻りすることとなった。
現在は背番号72を与えられ、サブとしてベンチで出番を待つ身のボアテング。3年前と比べれば、立場はずいぶんと変わってしまったが、まだ29歳である。ここから再浮上し、名門復活を期するミランの重要な駒となることが期待される。
さて、ここで話題をミランの背番号10に移すと、現在、このエースナンバーを背負うのは、言うまでもなく本田圭佑である。最近こそ称賛されているが、低調なパフォーマンスに終わった際に誰よりも辛辣な声を浴びせられたのは、彼が10番だったからに他ならない。
名門クラブのミランでは、10番とは試合を決定づけられる選手に与えられるものという伝統がある。
40~50年代にはウルグアイ代表で世界一にも昇り詰めたファン・アルベルト・スキアフィーノ、一世を風靡したスウェーデン人トリオ「グレ・ノ・リ」のひとりであり、後に監督としてミランを率いたニルス・リードホルムがこの番号を担った。
60年代になると、ジャンニ・リベーラというレジェンドが登場。得点力のあるクレバーなMFで10番の似合う彼は、スクデット、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)をクラブにもたらし、いまなおミランのシンボル的存在のひとりである。
その後、ロベルト・アントネッリ(左SBルカの父親)、ヴィニツィオ・ヴェルサといった選手がこの番号を継承。そしてシルビオ・ベルルスコーニがクラブを買収すると、「ヌメロ・ディエチ(10番)」はルート・フリットというスーパースターのものとなった。
90年代半ばに背番号固定制が実施されるまで、フリット欠場時には、ロベルト・ドナドーニ、アルベリゴ・エヴァーニといったイタリア代表の技巧派MFが代わりにエースナンバーを背負った。
その後、10番を手に入れたのは「ジェニオ(天才)」と呼ばれたデヤン・サビチェビッチ。あのイタリアの至宝、ロベルト・バッジョですら、このモンテネグロ産のテクニシャンから10番を奪うことはできず、18番に甘んじたのである。
サビチェビッチ以降は、ズボニミール・ボバン(クロアチア)、マヌエル・ルイ・コスタ(ポルトガル)、クラレンス・セードルフ(オランダ)と、それぞれタイプは異なるものの、世界レベルで実績を積んだ「違いを生み出せる選手」が系譜に名を連ねた。
そして、栄光のナンバーはボアテングを経て、本田に引き継がれた。前10番と現10番はこの先、どのようなかたちで「違い」を生み出してみせるのだろうか。
2016年1月に2年半ぶりにミランに復帰したベルリン生まれのガーナ代表選手。バイエルンでプレーするジェローム・ボアテングは弟(異母兄弟)だが、あちらはドイツ代表選手である。
故郷のクラブ、ヘルタ・ベルリンでキャリアをスタートし、20歳でトッテナムに移籍。その後、ドルトムントとポーツマスを経て、2010-11シーズンにミランの一員となり、チームのスクデット獲得に貢献した。
高い身体能力と技術を活かしたダイナミックなプレーを持ち味とし、トップ下としての高い特性を有する彼は、12-13シーズンからは伝統あるミランの背番号10を継承する栄誉を授かった。
しかし翌シーズン、彼は1000万ユーロ以上ともいわれる移籍金を置き土産に、シャルケに新天地を求める。ここでステップアップするはずが、真価を発揮することはできず、15年5月には首脳陣の信頼を失って契約解除。今冬にミランに出戻りすることとなった。
現在は背番号72を与えられ、サブとしてベンチで出番を待つ身のボアテング。3年前と比べれば、立場はずいぶんと変わってしまったが、まだ29歳である。ここから再浮上し、名門復活を期するミランの重要な駒となることが期待される。
さて、ここで話題をミランの背番号10に移すと、現在、このエースナンバーを背負うのは、言うまでもなく本田圭佑である。最近こそ称賛されているが、低調なパフォーマンスに終わった際に誰よりも辛辣な声を浴びせられたのは、彼が10番だったからに他ならない。
名門クラブのミランでは、10番とは試合を決定づけられる選手に与えられるものという伝統がある。
40~50年代にはウルグアイ代表で世界一にも昇り詰めたファン・アルベルト・スキアフィーノ、一世を風靡したスウェーデン人トリオ「グレ・ノ・リ」のひとりであり、後に監督としてミランを率いたニルス・リードホルムがこの番号を担った。
60年代になると、ジャンニ・リベーラというレジェンドが登場。得点力のあるクレバーなMFで10番の似合う彼は、スクデット、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)をクラブにもたらし、いまなおミランのシンボル的存在のひとりである。
その後、ロベルト・アントネッリ(左SBルカの父親)、ヴィニツィオ・ヴェルサといった選手がこの番号を継承。そしてシルビオ・ベルルスコーニがクラブを買収すると、「ヌメロ・ディエチ(10番)」はルート・フリットというスーパースターのものとなった。
90年代半ばに背番号固定制が実施されるまで、フリット欠場時には、ロベルト・ドナドーニ、アルベリゴ・エヴァーニといったイタリア代表の技巧派MFが代わりにエースナンバーを背負った。
その後、10番を手に入れたのは「ジェニオ(天才)」と呼ばれたデヤン・サビチェビッチ。あのイタリアの至宝、ロベルト・バッジョですら、このモンテネグロ産のテクニシャンから10番を奪うことはできず、18番に甘んじたのである。
サビチェビッチ以降は、ズボニミール・ボバン(クロアチア)、マヌエル・ルイ・コスタ(ポルトガル)、クラレンス・セードルフ(オランダ)と、それぞれタイプは異なるものの、世界レベルで実績を積んだ「違いを生み出せる選手」が系譜に名を連ねた。
そして、栄光のナンバーはボアテングを経て、本田に引き継がれた。前10番と現10番はこの先、どのようなかたちで「違い」を生み出してみせるのだろうか。