確固たる地位を築いていた守護神の未来を奪った一冊の告発本。

86年W杯期間中にキャプテンのカール・ハインツ・ルムメニゲと対立するなど、幾度もトラブルは起こしたものの、現在のマヌエル・ノイアーに続くドイツの名GKの系譜に、間違いなくトニーも名を連ねている。 (C) Getty Images
◇ハラルト・シューマッハー:1954年3月6日生まれ ドイツ・デューレン出身
前述のボアテングは、2014年に開催されたブラジル・ワールドカップにガーナ代表として出場したが、大会中に規律違反を理由にチームから追放された。スタッフへの暴言がその理由だとされている。
これとは状況が異なるが、80年代に西ドイツ(当時)、いや世界でも屈指のGKだったハラルト・シューマッハーもまた、自らの口(筆?)が災いして、所属クラブと代表チームの両方で守護神の座を失う羽目となった。
少年時代からストイックな姿勢で鍛錬に励み、自分にも他人にも厳しかった通称「トニー」。1972年にケルンでプロデビューを果たし、7年後に西ドイツ代表でのキャリアもスタートした。
ケルンでは2度のブンデスリーガ優勝を飾り、代表では80年の欧州選手権で優勝、82年、86年のワールドカップは準優勝。82年スペイン大会のフランスとの歴史に残る準決勝、そして86年メキシコ大会の開催国との準々決勝では、ともにPK戦で母国を勝利に導いた。
82年のフランス戦では、パトリック・バチストンに対して強烈な体当たりを見舞って重傷を負わせ、これに対して反省の姿勢も見せなかったことで国内外から非難され、悪イメージがついてしまったが、一方でその何にも動じないメンタリティが、何度もチームを救ってきたのも事実だ。
80年代半ば、クラブ、代表ともに正GKの座を脅かす者はおらず、地元開催のEURO88、90年イタリアW杯への出場も確実視されていたトニーだが、87年に出版した1冊の本のが、彼から輝かしい未来を全て奪い去ってしまった。
「アンプフィフ(開始の笛)」と題されたその告発本の内容は衝撃的だった。ドイツ・サッカー界が薬物に汚染されており、また不正が蔓延していると明かしたトニーは、さらに代表監督のフランツ・ベッケンバウアーをはじめ、自分のチームメイトを名指しで批判したのだ。
これに対する、ドイツ・サッカー連盟やケルンの反応は早く、彼はいずれからも即時追放されてしまう。その後、シャルケに拾われるも、チームは2部降格。88年からはトルコ(フェネルバフチェ)に新天地を求めることとなった。
トルコではリーグ優勝に貢献したことで英雄として称賛され、帰国後の95年に加入したドルトムントでもリーグ優勝を経験。充実した時期を過ごすことはできたが、あの告発本がなければ、さらなる世界レベルの名声を得ていたかもしれないと考えれば、喪失感は否めない。
引退後はバイエルンやドルトムントでGKコーチを歴任したトニーは現在、古巣ケルンの副会長を務める。今日で62歳になったが、率直な物言いはやはり、今でも変わることはない。
前述のボアテングは、2014年に開催されたブラジル・ワールドカップにガーナ代表として出場したが、大会中に規律違反を理由にチームから追放された。スタッフへの暴言がその理由だとされている。
これとは状況が異なるが、80年代に西ドイツ(当時)、いや世界でも屈指のGKだったハラルト・シューマッハーもまた、自らの口(筆?)が災いして、所属クラブと代表チームの両方で守護神の座を失う羽目となった。
少年時代からストイックな姿勢で鍛錬に励み、自分にも他人にも厳しかった通称「トニー」。1972年にケルンでプロデビューを果たし、7年後に西ドイツ代表でのキャリアもスタートした。
ケルンでは2度のブンデスリーガ優勝を飾り、代表では80年の欧州選手権で優勝、82年、86年のワールドカップは準優勝。82年スペイン大会のフランスとの歴史に残る準決勝、そして86年メキシコ大会の開催国との準々決勝では、ともにPK戦で母国を勝利に導いた。
82年のフランス戦では、パトリック・バチストンに対して強烈な体当たりを見舞って重傷を負わせ、これに対して反省の姿勢も見せなかったことで国内外から非難され、悪イメージがついてしまったが、一方でその何にも動じないメンタリティが、何度もチームを救ってきたのも事実だ。
80年代半ば、クラブ、代表ともに正GKの座を脅かす者はおらず、地元開催のEURO88、90年イタリアW杯への出場も確実視されていたトニーだが、87年に出版した1冊の本のが、彼から輝かしい未来を全て奪い去ってしまった。
「アンプフィフ(開始の笛)」と題されたその告発本の内容は衝撃的だった。ドイツ・サッカー界が薬物に汚染されており、また不正が蔓延していると明かしたトニーは、さらに代表監督のフランツ・ベッケンバウアーをはじめ、自分のチームメイトを名指しで批判したのだ。
これに対する、ドイツ・サッカー連盟やケルンの反応は早く、彼はいずれからも即時追放されてしまう。その後、シャルケに拾われるも、チームは2部降格。88年からはトルコ(フェネルバフチェ)に新天地を求めることとなった。
トルコではリーグ優勝に貢献したことで英雄として称賛され、帰国後の95年に加入したドルトムントでもリーグ優勝を経験。充実した時期を過ごすことはできたが、あの告発本がなければ、さらなる世界レベルの名声を得ていたかもしれないと考えれば、喪失感は否めない。
引退後はバイエルンやドルトムントでGKコーチを歴任したトニーは現在、古巣ケルンの副会長を務める。今日で62歳になったが、率直な物言いはやはり、今でも変わることはない。