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Jリーグ誕生を促した雨中の中国戦――晩年に遺された指揮官の舞台裏証言録【名勝負の後日談】

カテゴリ:連載・コラム

加部 究

2020年06月01日

亡くなる約半年前に初めて中国戦の舞台裏について話した石井監督。敗戦に「これで良くも悪くも日本サッカーが変わる」

ソウル五輪出場は最終戦の中国戦で露と消えた。その敗戦により、日本にはプロ化の機運が高まった。写真:サッカーダイジェスト

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 1987年10月26日、大雨に見舞われた東京・国立には5万人の観衆が集まった。引き分け狙いで広州のアウェー戦に臨み望外の勝利を手にした日本は、最終戦を引き分けても五輪切符が手に入る。前半日本にビッグチャンスが訪れた。松浦の代わりに出場した手塚聡がフリーで抜け出しGKと1対1になった。しかし右45度から放ったシュートは、GK張恵康の胸にしっかりと収まる。

「でも逆にあのチャンスが作れたのだから、また次もあると思っていました」(石井)

 しかし37分、均衡を破ったのは中国だった。
「CKからボールを動かされ、マークがずれたんです。本来中国のエース柳海光には、空中戦に強い勝矢寿延が競る予定だったのですが、あまりヘディングが得意ではない西村昭宏が対応をすることになりました」(石井)

 本来の左SBではなく、ボランチとしてプレーした都並敏史が振り返っている。
「中国はしっかりと日本を研究し、マークのずれを誘発してきました。FWが中盤に下りてきたり、選手と選手の間でボールを受けてみたり……。まずい、マークがずれていると感じながらプレーしていました」

 専守防衛のチームは追いかける展開になると策に窮した。切った交代カードは、70分、守備的な西村を下げて松山吉之を送り込んだ1枚のみ。逆に82分に中国に追加点を決められ力尽きた。

 石井監督に話を聞いたのは、亡くなる約半年前だった。それまでこの舞台裏については口を閉ざして来たという。終わった瞬間は「これで良くも悪くも日本サッカーが変わる」と思ったそうである。後にJリーグ創設の功労者だった木之本興三には「もしソウル五輪に出場出来ていたら、間違いなくプロ化が遅れていた。そういう意味では功労者」とジョークで慰労された。

 五輪を最大目標に掲げながら、まだ体制は一枚岩になり切れなかった。そんな時代もあった。それを石井は史実として後世に残して置きたいと考えたのかもしれない。(文中敬称略)

文●加部 究(スポーツライター)
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