Jリーグ創設以前にも到来していた偉大な王者

W杯史上最強チームといわれる70年のブラジル。リベリーノ(右から4人目)は、チームのファーストゴールを含む3得点を記録するなど、主力としてペレ(右隣)らと魅惑のサッカーを披露した。 (C) Getty Images
◇1970年メキシコ大会
優勝国:ブラジル
エメルソン・レオン(監督/清水/1992-94・監督/V川崎/1996-97・監督/神戸/2005)
ロベルト・リベリーノ(監督/清水/1994)
70年から、74、78、86年と4度、W杯に出場したブラジルのレジェンド守護神であるレオンだが、ペレら天才を多数擁し、完璧なサッカーで完璧(全勝)な優勝を飾った70年大会ではフェリックスの控え。レギュラーとしてゴールを守ったのは、次の2大会だった。
2代目監督として清水に招聘され、96年にはヴェルディ川崎でも指揮を執ったが、戦法をめぐってラモス瑠偉と対立。彼が京都パープルサンガ(当時)へ移籍する事態となった。神戸での指揮は、わずか2か月に終わっている。
清水の3代目監督となったのは、70年大会では主力の1人であり、74、78年大会では背番号10をつけた「左足の魔術師」リベリーノ。レオンの不祥事による解任を受けての就任で、第2ステージを(12チーム中)6位の成績で終えた後、自ら監督の座を退いた。
優勝国:ブラジル
エメルソン・レオン(監督/清水/1992-94・監督/V川崎/1996-97・監督/神戸/2005)
ロベルト・リベリーノ(監督/清水/1994)
70年から、74、78、86年と4度、W杯に出場したブラジルのレジェンド守護神であるレオンだが、ペレら天才を多数擁し、完璧なサッカーで完璧(全勝)な優勝を飾った70年大会ではフェリックスの控え。レギュラーとしてゴールを守ったのは、次の2大会だった。
2代目監督として清水に招聘され、96年にはヴェルディ川崎でも指揮を執ったが、戦法をめぐってラモス瑠偉と対立。彼が京都パープルサンガ(当時)へ移籍する事態となった。神戸での指揮は、わずか2か月に終わっている。
清水の3代目監督となったのは、70年大会では主力の1人であり、74、78年大会では背番号10をつけた「左足の魔術師」リベリーノ。レオンの不祥事による解任を受けての就任で、第2ステージを(12チーム中)6位の成績で終えた後、自ら監督の座を退いた。
◇1962年チリ大会
優勝国:ブラジル
ペペ(監督/読売&V川崎/1991-92)
プロリーグ創設に向け、日本サッカー界が大きく動き出そうとしていた91年、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)の監督にペペが就任。ブラジル代表監督も務めたカルロス・アルベルト・シルバの後を受け、日本サッカーリーグ(JSL)最後の覇者の称号を、チームにもたらした。
本名をジョゼ・マシアといい、W杯では58、62年大会ともに出番は訪れなかったものの、サントスではペレに次ぐ歴代2位の得点を挙げた、ブラジル・サッカー史に残る偉大な攻撃プレーヤーである。現在83歳。
◇1958年スウェーデン大会
優勝国:ブラジル
ペペ(監督/読売&V川崎/1991-92)
ジノ・サニ(特別コーチ/読売/1986-88)
ブラジルが17歳のペレを擁して初めて世界制覇を成し遂げた58年のメンバーで、同大会ではグループステージの2試合に出場したMF、ジノ・サニはパルメイラス、サンパウロといった国内クラブを経て、アルゼンチンのボカ、そしてイタリアのミランでもプレー。63年には主力として、ミランの欧州初制覇にも貢献した。
引退後は国内外のクラブを率い、中東の代表チームの監督も務めたが、86年に読売クラブの特別コーチとして来日。同年1月までチームを率いたドイツ人のルディ・グーテンドルフには反抗していたラモスらブラジル人選手(当時)も、実績十分の同国の先達には従順だったという。こちらは5月23日に86歳の誕生日を迎えている。