8人がJの舞台に立った94年王者ブラジル
◇1994年アメリカ大会
優勝国:ブラジル
ジョルジーニョ(DF・MF/鹿島/1995-98)
ベベット(FW/鹿島/2000)
ドゥンガ(MF/磐田/1995-98)
ジーニョ(MF/横浜F/1995-97)
レオナルド(MF/鹿島/1994-96)
ミューレル(FW/柏/1995)
ジウマール(GK/C大阪/1995-97)
ロナウダン(DF/清水/1994-95)
Jリーグ開幕から2年後に行なわれた大会。まだジャパンマネーが猛威を振るっていた時代、世界王者となったブラジルからは7人の名手たちが次々に、このサッカー発展途上国にやって来た。鹿島アントラーズをJの初代王者に引き上げた“神様”ジーコの存在が、その流れに拍車をかけたという。
多くが所属クラブの強化や勝利に貢献したが、2000年に鹿島アントラーズに加入したベベットは全くの期待外れに終わり、95年に柏でカレッカとのコンビが期待されたミューレルは、家族の事情により短期間でブラジルに帰国している。
ロナウダンは大会前の春に、清水エスパルスに加入。サンパウロの一員として92、93年と連続で南米&世界制覇に貢献した屈強なCBだった。清水での登録名は「ロナウド」。代表で名前が違ったのは、セレソンには当時17歳の、あの「怪物」がいたからだ。
なお当時は、トヨタカップで来日する南米選手のほうから、Jリーグへの売り込みが多数あったとか。
優勝国:ブラジル
ジョルジーニョ(DF・MF/鹿島/1995-98)
ベベット(FW/鹿島/2000)
ドゥンガ(MF/磐田/1995-98)
ジーニョ(MF/横浜F/1995-97)
レオナルド(MF/鹿島/1994-96)
ミューレル(FW/柏/1995)
ジウマール(GK/C大阪/1995-97)
ロナウダン(DF/清水/1994-95)
Jリーグ開幕から2年後に行なわれた大会。まだジャパンマネーが猛威を振るっていた時代、世界王者となったブラジルからは7人の名手たちが次々に、このサッカー発展途上国にやって来た。鹿島アントラーズをJの初代王者に引き上げた“神様”ジーコの存在が、その流れに拍車をかけたという。
多くが所属クラブの強化や勝利に貢献したが、2000年に鹿島アントラーズに加入したベベットは全くの期待外れに終わり、95年に柏でカレッカとのコンビが期待されたミューレルは、家族の事情により短期間でブラジルに帰国している。
ロナウダンは大会前の春に、清水エスパルスに加入。サンパウロの一員として92、93年と連続で南米&世界制覇に貢献した屈強なCBだった。清水での登録名は「ロナウド」。代表で名前が違ったのは、セレソンには当時17歳の、あの「怪物」がいたからだ。
なお当時は、トヨタカップで来日する南米選手のほうから、Jリーグへの売り込みが多数あったとか。

90年大会ではレギュラーではなかったものの、ここ一番で重要な働きを見せて西ドイツの優勝に貢献したリトバルスキー(左)。彼もまた、日本サッカーにとっては恩人のひとりだ。隣はマテウス。 (C) Getty Images
◇1990年イタリア大会
優勝:西ドイツ(当時)
ギド・ブッフバルト(DF/浦和/1994-97・監督/浦和/2004-07)
ピエール・リトバルスキー(FW/市原/1993-94・FW/仙台/1996-97・監督/横浜FC/1999-2000&2003-04・監督/福岡/2007-08)
ウーベ・バイン(MF/浦和/1994-97)
ホルガー・オジェック(監督/浦和/1995-96&2007-08)
Jリーグ発足時、当時の世界王者であるドイツの選手たちは、当然ながら各クラブのターゲットとなった。初年度に参加したのは、その後、選手・監督として長く日本と関わることなるリトバルスキーだけだったが、他にもローター・マテウスら多くの主力がオファーを受けていた。
ドイツとの繋がりは浦和レッズが強く、J創設から2年間は下位に沈んでいたチームをブッフバルト、バインが辛抱強く支え、ドイツ代表やマルセイユでフランツ・ベッケンバウアーの右腕として手腕を発揮したオジェックは、95年に監督に就任してから、チームを上位争いに導いた。
ブッフバルトは04年から監督として浦和を率い、同年にクラブ史上初のステージ制覇、そして06年には初のリーグ制覇を成し遂げており、同クラブのレジェンドとして、今なお愛される存在である。