15年にわたり在籍した大学サッカー部を辞める決断をしたワケは?
母校のために――。その想いで関西大のコーチになったが、最初は苦労の連続だった。島岡も苦笑いを浮かべながら、当時をこう振り返る。
「指導者をやったことがないから、何をしていいか分からなかった。なので、学生に『俺は外を走っておくから、いつも自分たちがやっていることをやってくれ』と。そこから始めて、最初の1、2週間は様子を見ていました。その中で『もう少しこうすればいいのに、これができたらいいのに』というのをその当時のキャプテンと話すようになって、そこから僕がちょっと指導に入っていたんです」
手探りから始まった指導者の道。選手の兄貴分として密にコミュニケーションを取り、日々グラウンドに足を運んで汗を流した。在籍9年目となった09年からは監督となり、翌年には全日本大学サッカー選手権で優勝。順風満帆の日々を過ごした。
だが、島岡は15年度に大学を去る決断を下す。自身と学生の成長を考えた故の退任だった。
「大学に来て15年目。いつまでも大学にいても自分自身にとっても、学生たちにとっても良くない。同じチームを長く指導される方もいるので、それを否定するわけではないけど、自分と学生の年齢差がどんどん離れていくなかで、このままで果たしていいのかなという考えもありました。最終的には、自分が新たに外に出て挑戦したいという気持ちが強くなったことが決め手になり、15年目を区切りに大学側とOBの方に今年で大学を離れさせてもらいたいと話したんです」
15年の秋前までに想いを固めたなかで、次は何をするのか。頭を巡らせていると、高校時代の盟友で名古屋のGMに就任した小倉氏と話す機会があった。直々に誘いを受けると、翌年から小倉氏が監督に就任した縁もあって名古屋のトップチームコーチに就任したのだ。
残念ながらシーズン途中で小倉氏は退任したが、島岡はコーチとして留任。そして、翌年に運命的な出会いを果たす。後任の風間八宏監督だ。日本サッカー界を席巻した名将との出会いは、島岡のサッカー観を劇的に変えたという。
「指導者をやったことがないから、何をしていいか分からなかった。なので、学生に『俺は外を走っておくから、いつも自分たちがやっていることをやってくれ』と。そこから始めて、最初の1、2週間は様子を見ていました。その中で『もう少しこうすればいいのに、これができたらいいのに』というのをその当時のキャプテンと話すようになって、そこから僕がちょっと指導に入っていたんです」
手探りから始まった指導者の道。選手の兄貴分として密にコミュニケーションを取り、日々グラウンドに足を運んで汗を流した。在籍9年目となった09年からは監督となり、翌年には全日本大学サッカー選手権で優勝。順風満帆の日々を過ごした。
だが、島岡は15年度に大学を去る決断を下す。自身と学生の成長を考えた故の退任だった。
「大学に来て15年目。いつまでも大学にいても自分自身にとっても、学生たちにとっても良くない。同じチームを長く指導される方もいるので、それを否定するわけではないけど、自分と学生の年齢差がどんどん離れていくなかで、このままで果たしていいのかなという考えもありました。最終的には、自分が新たに外に出て挑戦したいという気持ちが強くなったことが決め手になり、15年目を区切りに大学側とOBの方に今年で大学を離れさせてもらいたいと話したんです」
15年の秋前までに想いを固めたなかで、次は何をするのか。頭を巡らせていると、高校時代の盟友で名古屋のGMに就任した小倉氏と話す機会があった。直々に誘いを受けると、翌年から小倉氏が監督に就任した縁もあって名古屋のトップチームコーチに就任したのだ。
残念ながらシーズン途中で小倉氏は退任したが、島岡はコーチとして留任。そして、翌年に運命的な出会いを果たす。後任の風間八宏監督だ。日本サッカー界を席巻した名将との出会いは、島岡のサッカー観を劇的に変えたという。