短期集中連載『名勝負の後日談』vol.2 82W杯イタリアvsブラジル|黄金のカルテット擁するセレソンにアズーリはどう対抗したのか?
歴史に残る名勝負、名シーンには興味深い後日談がある。舞台裏を知る関係者たちが明かしたあの日のエピソード、その後の顛末に迫る。(文:加部 究/スポーツライター)
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6年前、ブラジル・ワールドカップの取材中に、デパートでポロシャツフェアが開かれていた。胸に愛する代表チームがワールドカップで活躍した年がデザインされていて、初優勝した「58」や世界に先駆けて3度目の制覇を達成した「70」に混じり「82」も大量に販売されていた。優勝した「94」や「02」はないのに、2次リーグで敗退した「82」は依然として絶大な人気を集めているのだ。
1982年スペイン大会が開幕して暫くすると、ブラジルの優勝を疑う声は消えた。MFにはジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと黄金のカルテットが君臨し、両サイドバックのレアンドロ、ジュニオールが攻撃に厚みを加え、レフティのエデルは悪魔のようなキックでゴールを脅かした。チームを指揮したのはテレ・サンターナ。史上初めてブラジル国内の4つの異なる州リーグを制し、2年前に代表監督を引き継いでいた。翌81年新春には、過去のワールドカップ優勝国とオランダがウルグアイに集結して「コパ・デ・オロ」が開催され、ジーコ、ファルカンを欠くブラジルは、決勝戦でウルグアイに1-2で敗れたが、それ以降は負け知らずのまま本大会に突入することになった。
さらに本大会に入っても1次リーグを順当に3連勝。3か国で準決勝の椅子を争う2次リーグ初戦では、前回優勝メンバーに天才ディエゴ・マラドーナを加えたアルゼンチンを3-1で一蹴してしまう。あとは1次リーグで3戦3分けと、まったく調子の上がらないイタリア戦を引き分け以上でベスト4に進む流れが出来ていた。
一方イタリアを取り巻く状況は最悪だった。
前回アルゼンチン大会では若いメンバーで唯一優勝した開催国に土をつけ、洋々たる未来を感じさせた。特にセリエB→Aで連続して得点王を獲得した当時21歳のパオロ・ロッシは、王様ペレからも「大会最高の若手」と称賛されていた。ところがそのロッシが八百長疑惑で3年間の出場停止処分を受け(後に2年間に軽減)、同国サッカー界の空気は淀み、アズーリの愛称を持つ代表も低迷に陥った。自国開催で優勝が期待された80年欧州選手権も4位に終わり、チームを率いるエンツォ・ベアルゾット監督は、選手起用などの采配面だけでなく、個人的なスキャンダルも含めてメディアから総攻撃を受ける。
いよいよ82年にワールドカップが近づくと「こんなチームはスペインへ行くべきではない。無様な姿を晒すだけだ」と、辞退勧告のキャンペーンまで飛び出したという。実際にスペイン大会が開幕してもアズーリの調子は上向かず、集中的に酷評されたのが、直前に復帰を果たし指揮官が信頼してスタメンで使い続けるロッシだった。
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6年前、ブラジル・ワールドカップの取材中に、デパートでポロシャツフェアが開かれていた。胸に愛する代表チームがワールドカップで活躍した年がデザインされていて、初優勝した「58」や世界に先駆けて3度目の制覇を達成した「70」に混じり「82」も大量に販売されていた。優勝した「94」や「02」はないのに、2次リーグで敗退した「82」は依然として絶大な人気を集めているのだ。
1982年スペイン大会が開幕して暫くすると、ブラジルの優勝を疑う声は消えた。MFにはジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと黄金のカルテットが君臨し、両サイドバックのレアンドロ、ジュニオールが攻撃に厚みを加え、レフティのエデルは悪魔のようなキックでゴールを脅かした。チームを指揮したのはテレ・サンターナ。史上初めてブラジル国内の4つの異なる州リーグを制し、2年前に代表監督を引き継いでいた。翌81年新春には、過去のワールドカップ優勝国とオランダがウルグアイに集結して「コパ・デ・オロ」が開催され、ジーコ、ファルカンを欠くブラジルは、決勝戦でウルグアイに1-2で敗れたが、それ以降は負け知らずのまま本大会に突入することになった。
さらに本大会に入っても1次リーグを順当に3連勝。3か国で準決勝の椅子を争う2次リーグ初戦では、前回優勝メンバーに天才ディエゴ・マラドーナを加えたアルゼンチンを3-1で一蹴してしまう。あとは1次リーグで3戦3分けと、まったく調子の上がらないイタリア戦を引き分け以上でベスト4に進む流れが出来ていた。
一方イタリアを取り巻く状況は最悪だった。
前回アルゼンチン大会では若いメンバーで唯一優勝した開催国に土をつけ、洋々たる未来を感じさせた。特にセリエB→Aで連続して得点王を獲得した当時21歳のパオロ・ロッシは、王様ペレからも「大会最高の若手」と称賛されていた。ところがそのロッシが八百長疑惑で3年間の出場停止処分を受け(後に2年間に軽減)、同国サッカー界の空気は淀み、アズーリの愛称を持つ代表も低迷に陥った。自国開催で優勝が期待された80年欧州選手権も4位に終わり、チームを率いるエンツォ・ベアルゾット監督は、選手起用などの采配面だけでなく、個人的なスキャンダルも含めてメディアから総攻撃を受ける。
いよいよ82年にワールドカップが近づくと「こんなチームはスペインへ行くべきではない。無様な姿を晒すだけだ」と、辞退勧告のキャンペーンまで飛び出したという。実際にスペイン大会が開幕してもアズーリの調子は上向かず、集中的に酷評されたのが、直前に復帰を果たし指揮官が信頼してスタメンで使い続けるロッシだった。
ロッシの述懐である。
「なかにはチームメイトとの同性愛疑惑をでっち上げるメディアもあった」
メディアとの冷戦があまりに深刻化したため、とうとうベアルゾット監督は報道規制を敷く。チームで取材に対応するのは、40歳の守護神ディノ・ゾフだけになった。
「理由は簡単。彼が最も無口な男だったからだよ」(同監督)
ロッシに光明は見えなかった。1次リーグから無得点が続き、ついに2次リーグ最初のアルゼンチン戦では80分で途中交代を命じられる。
「これで完全に僕のワールドカップは終わったと思った。僕は感覚で得点するストライカー。その感覚が思い出せない以上、もう選手として終わったとさえ思った」