「誰からも見向きもされなかった僕を、ミシャが見つけてくれた」
誰の人生にも、ターニングポイントと呼べる出来事があるものだ。
もし、あの時、違う道へと進んでいたら、もし、あの人と出会えていなかったら……。その後の人生は今とはまるで違うものになっていたに違いない。
青山敏弘にもキャリアにおける分岐点がある。
2006年の夏、オーストリアからやって来たばかりの、情熱をほとばしらせる指揮官によって、青山はスポットライトの当たる表舞台へと引き上げられた。
「誰からも見向きもされなかった僕を、ミシャが見つけてくれたんです。プロとして初めて認められたんだって思うと、とにかく嬉しかった」
ドイツ・ワールドカップによるJ1リーグの中断期間に、青山のプロサッカー人生は大きく動き出す。
サンフレッチェ広島がシーズン半ばに「ミシャ」ことミハイロ・ペトロヴィッチを新監督として招き入れた時、プロ3年目を迎えた青山の公式戦出場は、新人だった2004年シーズンに記録したカップ戦1試合にとどまっていた。
2004年9月に右腓骨を骨折し、2005年5月に左膝十字靭帯を断裂した青山は、同期や後輩が次々とデビューするのを尻目に、ベンチ入りするのがやっとだった。
「一流として期待されて入ったわけではないですし、試合にもまったく出られない。2年続けて怪我もして、今年ダメだったら来年はアウトかもしれないって、不安でいっぱいでした」
実績もない。経験も、自信もない。
だが、青山には覚悟があった。
「でも、それならそれでしょうがない。すべてを出して、悔いを残さないようにやりきろうって。その覚悟だけは持っていたと思います」
海外から来た指導者は、実績にとらわれず自分の目を信じて選手を起用する傾向がある。チーム再建を託されて途中就任した新監督なら、なおさらだ。
ペトロヴィッチはリーグ戦未出場の青年に眠る才能をすぐに見出した。あるいは、その青年から並々ならぬ覚悟を感じ取ったのかもしれない。
サブ組だった青山をAチームに引き上げると、戸田和幸と森﨑和幸を中盤の底から最終ラインに移して、青山をボランチに抜擢するのだ。
青山も、指揮官の志向する攻撃的なサッカーと自身のスタイルが合うことに、すぐに気づいた。
「手応えを感じましたね。もしかするとチャンスが来るかもしれない、チャンスが来たらやれるんじゃないかって。とにかく再開が楽しみだった」
もし、あの時、違う道へと進んでいたら、もし、あの人と出会えていなかったら……。その後の人生は今とはまるで違うものになっていたに違いない。
青山敏弘にもキャリアにおける分岐点がある。
2006年の夏、オーストリアからやって来たばかりの、情熱をほとばしらせる指揮官によって、青山はスポットライトの当たる表舞台へと引き上げられた。
「誰からも見向きもされなかった僕を、ミシャが見つけてくれたんです。プロとして初めて認められたんだって思うと、とにかく嬉しかった」
ドイツ・ワールドカップによるJ1リーグの中断期間に、青山のプロサッカー人生は大きく動き出す。
サンフレッチェ広島がシーズン半ばに「ミシャ」ことミハイロ・ペトロヴィッチを新監督として招き入れた時、プロ3年目を迎えた青山の公式戦出場は、新人だった2004年シーズンに記録したカップ戦1試合にとどまっていた。
2004年9月に右腓骨を骨折し、2005年5月に左膝十字靭帯を断裂した青山は、同期や後輩が次々とデビューするのを尻目に、ベンチ入りするのがやっとだった。
「一流として期待されて入ったわけではないですし、試合にもまったく出られない。2年続けて怪我もして、今年ダメだったら来年はアウトかもしれないって、不安でいっぱいでした」
実績もない。経験も、自信もない。
だが、青山には覚悟があった。
「でも、それならそれでしょうがない。すべてを出して、悔いを残さないようにやりきろうって。その覚悟だけは持っていたと思います」
海外から来た指導者は、実績にとらわれず自分の目を信じて選手を起用する傾向がある。チーム再建を託されて途中就任した新監督なら、なおさらだ。
ペトロヴィッチはリーグ戦未出場の青年に眠る才能をすぐに見出した。あるいは、その青年から並々ならぬ覚悟を感じ取ったのかもしれない。
サブ組だった青山をAチームに引き上げると、戸田和幸と森﨑和幸を中盤の底から最終ラインに移して、青山をボランチに抜擢するのだ。
青山も、指揮官の志向する攻撃的なサッカーと自身のスタイルが合うことに、すぐに気づいた。
「手応えを感じましたね。もしかするとチャンスが来るかもしれない、チャンスが来たらやれるんじゃないかって。とにかく再開が楽しみだった」