ポジティブな言葉なんてかけることはできない。
ポロポロ、ポロポロ。
青山敏弘は、泣いた。泣き続けた。森﨑浩司が「俺、引退するわ」とさりげなく言葉をかけた、その直後からだ。
「どうして、あれほどショックを受けたのか」
心の奥底の声を聞いてみる。青山は、分かっていた。
「浩司さんはいつも自分の前に、そして後ろにもいてくれた。引っ張ってくれるし、後ろから支えてもくれた。浩司さんがいない時、僕らはどうやって(広島のサッカーを表現)すればいいか、分からない。2009年、僕らはどんな相手とやっても試合を支配して、4位になった。でもあの時、浩司さんはずっと、いなかった。前の年、J2とはいえ14得点・7アシスト。あれほど点をとっていた浩司さんがいれば……。僕らはずっと、そう思っていた」
その2009年の終盤、青山は膝を負傷。左膝内側半月板縫合術という手術を受け、全治4~5か月という診断を受けた。必死のリハビリを続け、翌年の川崎戦で復帰。だがその試合で再び、左膝の内側半月板を断裂。さらに手術を重ねて全治2か月。怪我による長期離脱を何度も繰り返してきた。
「こういう時、僕はいつも自分を責める。どうして自分は、チームの役に立てないのか。そういうことばかり、考える。そしてきっと、浩司さんも同じ気持ちになっていたはずなんです」
オーバートレーニング症候群で、09年のほぼ1年間を棒に振った。それからも毎年のように症状に陥っては離脱を繰り返し、13年にはまたも、ほぼ1年間近く、戦えなくなった。
精気のない表情。焦点の合わない視線。サッカーができない辛さ。09年には、生きる意欲すら失った男の苦闘。
青山はずっと、その姿を間近で見てきた。しかし果たして、その時の浩司に対して何ができたというのか。
「頑張りましょう」
「大丈夫ですよ」
「きっと復帰できますよ」
ポジティブな言葉だ。だが、明日の自分すら思い描けないような症状と戦っている選手に、具体的な裏づけのないポジティブな言葉をかけることなんて、できない。
浩司はすでに、頑張っていた。それでも苦しい。根拠もなく「大丈夫」だとか、まして復帰のことなんて、言えない。
兄・森﨑和幸の述懐である。
「09年春に味わったあいつの苦しみは、想像を絶していた。実際にあいつと会った時、症状の悪化が一目見て、分かったから。サッカー選手として戻ってきてほしいなんて、思えない。兄として、弟が普通の生活をできるようになってほしい。心から願った。
僕も(慢性疲労症候群による)辛さを味わった。その苦しさを単純に比較はできないけれど、きっとあいつの方が厳しかったと思う」
青山敏弘は、泣いた。泣き続けた。森﨑浩司が「俺、引退するわ」とさりげなく言葉をかけた、その直後からだ。
「どうして、あれほどショックを受けたのか」
心の奥底の声を聞いてみる。青山は、分かっていた。
「浩司さんはいつも自分の前に、そして後ろにもいてくれた。引っ張ってくれるし、後ろから支えてもくれた。浩司さんがいない時、僕らはどうやって(広島のサッカーを表現)すればいいか、分からない。2009年、僕らはどんな相手とやっても試合を支配して、4位になった。でもあの時、浩司さんはずっと、いなかった。前の年、J2とはいえ14得点・7アシスト。あれほど点をとっていた浩司さんがいれば……。僕らはずっと、そう思っていた」
その2009年の終盤、青山は膝を負傷。左膝内側半月板縫合術という手術を受け、全治4~5か月という診断を受けた。必死のリハビリを続け、翌年の川崎戦で復帰。だがその試合で再び、左膝の内側半月板を断裂。さらに手術を重ねて全治2か月。怪我による長期離脱を何度も繰り返してきた。
「こういう時、僕はいつも自分を責める。どうして自分は、チームの役に立てないのか。そういうことばかり、考える。そしてきっと、浩司さんも同じ気持ちになっていたはずなんです」
オーバートレーニング症候群で、09年のほぼ1年間を棒に振った。それからも毎年のように症状に陥っては離脱を繰り返し、13年にはまたも、ほぼ1年間近く、戦えなくなった。
精気のない表情。焦点の合わない視線。サッカーができない辛さ。09年には、生きる意欲すら失った男の苦闘。
青山はずっと、その姿を間近で見てきた。しかし果たして、その時の浩司に対して何ができたというのか。
「頑張りましょう」
「大丈夫ですよ」
「きっと復帰できますよ」
ポジティブな言葉だ。だが、明日の自分すら思い描けないような症状と戦っている選手に、具体的な裏づけのないポジティブな言葉をかけることなんて、できない。
浩司はすでに、頑張っていた。それでも苦しい。根拠もなく「大丈夫」だとか、まして復帰のことなんて、言えない。
兄・森﨑和幸の述懐である。
「09年春に味わったあいつの苦しみは、想像を絶していた。実際にあいつと会った時、症状の悪化が一目見て、分かったから。サッカー選手として戻ってきてほしいなんて、思えない。兄として、弟が普通の生活をできるようになってほしい。心から願った。
僕も(慢性疲労症候群による)辛さを味わった。その苦しさを単純に比較はできないけれど、きっとあいつの方が厳しかったと思う」