北京五輪本大会のメンバーから落選、ポジションを失う危機。
北京五輪出場とJ1復帰――。
2008年シーズンはそのふたつを目標に掲げたが、7月14日にひとつが失われた。
反町康治監督の読み上げたメンバーリストに、青山の名前はなかった。
その事実を広島に向かう新幹線の中で知った青山は、実家のある岡山駅で途中下車してホームのベンチに座り、1時間ほど動けなかった。
「ショックでしたね、すごく。でも、分かってたんです、オリンピックはダメだろうって。5月のトゥーロン(国際大会)で個の能力をもっと高めないと厳しいって感じたし、そのなかでも本田(圭佑)とかは通用してましたから。だから落選したあとは、意固地になる必要なんかなく、力不足を受け止めて、サンフレッチェで努力していくしかないなって」
広島では、J2の首位を走るチームの中心選手としてピッチに立ち続けていた。
だが、それでも不安に苛まれていた。
「試合に出続けているから充実感もあったし、自信も生まれていたんですけど、ミシャの求めるものが高いから、本当に紙一重のところでポジションを保っている状態だった。(柏木)陽介も試合にあまり出られてなかったから、いつ自分がそうなってもおかしくない。危機感は常にありましたね」
9月、その懸念が現実のものとなる。
35節のモンテディオ山形戦で、青山は右サイドでの出場を告げられるのだ。そのコンバートを、青山はボランチからの降格だと理解した。
「すごく悔しくて、監督に『同情で出すぐらいなら、ベンチでいいですよ』って言ったんです。こんなことを言ったら普通はベンチ外ですよね。でも、監督は僕の悔しさを察して『アオならできるよ』って、受け止めてくれたんです」
指揮官に背中を押され、初めて臨んだ右サイドでのプレーは、青山に新たな気付きとプレーの幅をもたらした。
「1試合だけでしたけど、ワイドに入ったことで戦術の狙いが分かったし、サイドの崩し方を学べた。でも、それを感じさせるためのコンバートだったとは思ってない。ポジション争いで弾かれて、右に回されたと思っている。ただ、そのなかでもなにかを掴んでやるっていう意地があったから、感じられたのかなって」
2008年シーズンはそのふたつを目標に掲げたが、7月14日にひとつが失われた。
反町康治監督の読み上げたメンバーリストに、青山の名前はなかった。
その事実を広島に向かう新幹線の中で知った青山は、実家のある岡山駅で途中下車してホームのベンチに座り、1時間ほど動けなかった。
「ショックでしたね、すごく。でも、分かってたんです、オリンピックはダメだろうって。5月のトゥーロン(国際大会)で個の能力をもっと高めないと厳しいって感じたし、そのなかでも本田(圭佑)とかは通用してましたから。だから落選したあとは、意固地になる必要なんかなく、力不足を受け止めて、サンフレッチェで努力していくしかないなって」
広島では、J2の首位を走るチームの中心選手としてピッチに立ち続けていた。
だが、それでも不安に苛まれていた。
「試合に出続けているから充実感もあったし、自信も生まれていたんですけど、ミシャの求めるものが高いから、本当に紙一重のところでポジションを保っている状態だった。(柏木)陽介も試合にあまり出られてなかったから、いつ自分がそうなってもおかしくない。危機感は常にありましたね」
9月、その懸念が現実のものとなる。
35節のモンテディオ山形戦で、青山は右サイドでの出場を告げられるのだ。そのコンバートを、青山はボランチからの降格だと理解した。
「すごく悔しくて、監督に『同情で出すぐらいなら、ベンチでいいですよ』って言ったんです。こんなことを言ったら普通はベンチ外ですよね。でも、監督は僕の悔しさを察して『アオならできるよ』って、受け止めてくれたんです」
指揮官に背中を押され、初めて臨んだ右サイドでのプレーは、青山に新たな気付きとプレーの幅をもたらした。
「1試合だけでしたけど、ワイドに入ったことで戦術の狙いが分かったし、サイドの崩し方を学べた。でも、それを感じさせるためのコンバートだったとは思ってない。ポジション争いで弾かれて、右に回されたと思っている。ただ、そのなかでもなにかを掴んでやるっていう意地があったから、感じられたのかなって」