ボランチ降格からの意地。広島のキャプテンへ。
意地という言葉に、青山敏弘というサッカー選手の本質がにじんでいる。
1年でJ1に復帰した広島は3-4-2-1をベースとした「可変システム」に磨きをかけ、ペトロヴィッチ退任後に森保一監督が就任すると、2012、2013、2015年と3度のリーグ制覇を成し遂げた。
進化するチームに呼応するように、青山も2013年に日本代表に選出され、2014年には、広島のキャプテンに就任。その年のブラジル・ワールドカップに出場すると、2015年には、JリーグMVPに輝いた。
「僕は本当に二流、三流で、叩き上げでここまで来たと思っている。チームとともに成長させてもらってきたっていうのは、常に感じています」
2006年シーズンが終わった時、青山は「もっとシーズンが続けばいいのに」と思った。試合に出られるようになった半年間は、なにもかもが新鮮で、楽しくて、嬉しくて、仕方がなかったからだ。
しかしその後、青山に2006年後半のようなシーズンは訪れていない。骨折やJ2降格、五輪落選を経験したから、というだけでなく、中心選手として活躍すればするほど、チームが強くなればなるほど、プレッシャーや不安、責任が大きくなって襲いかかってきたからだ。
「それを乗り越えた時は大きな喜びを感じられるんですけど、その分、もっと大きくなるから、苦しいことのほうが多い。いや、苦しさしかないかな」
だが、不安が消えることはなくても、ちょっとばかりの変化はあった。
「ひとりで解決することは不可能だって分かってからは、少しずつ自分が大きくなれてるんじゃないかと感じます。それに、優勝してMVPまでいただいた。周りが認めてくれたことで、こんな自分も認められていいんだって。それで肩の力がちょっと抜けたかな」
2006年の夏から大きく動き出した青山のプロサッカー人生は、これから先も不安やプレッシャーと向き合う日々が繰り返されていくに違いない。
「でもね、不安が自分を駆り立ててくれるんです。プレッシャーから逃げちゃいけない。プレッシャーに立ち向かうことで強くなれる。そう信じています。だって、これまでもそうでしたから」
そう言って笑みをたたえた青山は、責任を背負った男特有の、見る者をゾクッとさせる色気を漂わせていた。
取材・文:飯尾篤史(スポーツライター)
けやき坂46・影山優佳さんが「サッカー愛」、独自の「サンフレッチェ歴代ベスト11」を語る!
1年でJ1に復帰した広島は3-4-2-1をベースとした「可変システム」に磨きをかけ、ペトロヴィッチ退任後に森保一監督が就任すると、2012、2013、2015年と3度のリーグ制覇を成し遂げた。
進化するチームに呼応するように、青山も2013年に日本代表に選出され、2014年には、広島のキャプテンに就任。その年のブラジル・ワールドカップに出場すると、2015年には、JリーグMVPに輝いた。
「僕は本当に二流、三流で、叩き上げでここまで来たと思っている。チームとともに成長させてもらってきたっていうのは、常に感じています」
2006年シーズンが終わった時、青山は「もっとシーズンが続けばいいのに」と思った。試合に出られるようになった半年間は、なにもかもが新鮮で、楽しくて、嬉しくて、仕方がなかったからだ。
しかしその後、青山に2006年後半のようなシーズンは訪れていない。骨折やJ2降格、五輪落選を経験したから、というだけでなく、中心選手として活躍すればするほど、チームが強くなればなるほど、プレッシャーや不安、責任が大きくなって襲いかかってきたからだ。
「それを乗り越えた時は大きな喜びを感じられるんですけど、その分、もっと大きくなるから、苦しいことのほうが多い。いや、苦しさしかないかな」
だが、不安が消えることはなくても、ちょっとばかりの変化はあった。
「ひとりで解決することは不可能だって分かってからは、少しずつ自分が大きくなれてるんじゃないかと感じます。それに、優勝してMVPまでいただいた。周りが認めてくれたことで、こんな自分も認められていいんだって。それで肩の力がちょっと抜けたかな」
2006年の夏から大きく動き出した青山のプロサッカー人生は、これから先も不安やプレッシャーと向き合う日々が繰り返されていくに違いない。
「でもね、不安が自分を駆り立ててくれるんです。プレッシャーから逃げちゃいけない。プレッシャーに立ち向かうことで強くなれる。そう信じています。だって、これまでもそうでしたから」
そう言って笑みをたたえた青山は、責任を背負った男特有の、見る者をゾクッとさせる色気を漂わせていた。
取材・文:飯尾篤史(スポーツライター)
けやき坂46・影山優佳さんが「サッカー愛」、独自の「サンフレッチェ歴代ベスト11」を語る!