戦国の埼玉高校サッカー界で着実に進化を遂げる
プロ選手になれたとしても引退後を視野に入れ、サッカーを生かせるのは教師と考え、大学では教育職員免許を取得していた。
03年4月、埼玉県川口市立榛松中学の保健体育科に臨時的任用教員として赴任。サッカー部の顧問も担当し1年間奉職した。着任する2か月前、川口市内のサッカークラブでコーチを務めたことで、違和感なく生徒と向き合えたが、“臨任”は1年限りで終了する。
Jリーグが02年に設立したキャリアサポータセンターに次の道を相談すると、石川県の金沢スポーツクラブV10を紹介してもらった。「フットサル場を新設し、サッカースクールを立ち上げるタイミングでした。金沢は雨の多い土地柄なので室内のスクールは需要があり、園児から中学生まで多くの生徒が集まりました」と説明し、3年間勤めた。
第一子が小学校に入学する前、金沢に永住するか埼玉に戻るかで迷った末、後者に決めた。首尾よく東京の駿台学園高への就職がかなう。
保健体育科教諭とサッカー部顧問の肩書で07年から6年間勤務し、「担任も持てて充実していた。部活動では上手くなるためのノウハウを伝えつつ、生徒が楽しくやれることに重心を置きました」と述べる。
最後は地元に貢献したい思いが募り、13年4月から埼玉平成高へ職場を変え、今春12年目を迎えた。
03年4月、埼玉県川口市立榛松中学の保健体育科に臨時的任用教員として赴任。サッカー部の顧問も担当し1年間奉職した。着任する2か月前、川口市内のサッカークラブでコーチを務めたことで、違和感なく生徒と向き合えたが、“臨任”は1年限りで終了する。
Jリーグが02年に設立したキャリアサポータセンターに次の道を相談すると、石川県の金沢スポーツクラブV10を紹介してもらった。「フットサル場を新設し、サッカースクールを立ち上げるタイミングでした。金沢は雨の多い土地柄なので室内のスクールは需要があり、園児から中学生まで多くの生徒が集まりました」と説明し、3年間勤めた。
第一子が小学校に入学する前、金沢に永住するか埼玉に戻るかで迷った末、後者に決めた。首尾よく東京の駿台学園高への就職がかなう。
保健体育科教諭とサッカー部顧問の肩書で07年から6年間勤務し、「担任も持てて充実していた。部活動では上手くなるためのノウハウを伝えつつ、生徒が楽しくやれることに重心を置きました」と述べる。
最後は地元に貢献したい思いが募り、13年4月から埼玉平成高へ職場を変え、今春12年目を迎えた。
浦田が赴任した年の10月に人工芝グラウンドが完成。この2年後、将来プロで活躍できる選手育成と並行し、著名大学への現役合格を目ざす進学コース(スーパーサッカー)が新設され、硬式野球部とともに看板部活動クラブとなった。
それまで部員は30人ほどで、戦績にしても02年に全国高校選手権予選の16強が1度あっただけ。しかしこれを境に中学生の好素材が続々と入部し、1学年で約70人集まるようになった。Jリーグ川崎でレギュラーの左SB佐々木旭、ツエーゲン金沢のDF長峰祐斗は一期生だ。
15年には川崎で1年間同僚だった三島伸也がコーチに加わった。チームづくりの信条を尋ねると「高校で燃え尽きちゃうような指導はしたくない。的確な判断の下でプレーし、上に進んでも通用する選手を育てたいですね」と持論を展開し、「育成に力を入れつつも、しっかりビルドアップできる戦術で結果も追求していく」と述べた。
浦田が指揮を執ってから、全国高校選手権予選は8強が1度にベスト16が5度。昨年の関東高校大会予選は準優勝し、本大会でも1勝した。中期的な目標は、県大会で常に8強から4強を狙える安定した力を身に付けることだ。
埼玉にはサッカー関係の知人が大勢いるうえ、常に優勝候補だった当時の武南OBということから恩恵も受けた。ともに県高体連サッカー専門部委員長だった田中龍太郎、二見元は武南の先輩で、多くの卒業生が指導者として活躍していたからだ。
それまで部員は30人ほどで、戦績にしても02年に全国高校選手権予選の16強が1度あっただけ。しかしこれを境に中学生の好素材が続々と入部し、1学年で約70人集まるようになった。Jリーグ川崎でレギュラーの左SB佐々木旭、ツエーゲン金沢のDF長峰祐斗は一期生だ。
15年には川崎で1年間同僚だった三島伸也がコーチに加わった。チームづくりの信条を尋ねると「高校で燃え尽きちゃうような指導はしたくない。的確な判断の下でプレーし、上に進んでも通用する選手を育てたいですね」と持論を展開し、「育成に力を入れつつも、しっかりビルドアップできる戦術で結果も追求していく」と述べた。
浦田が指揮を執ってから、全国高校選手権予選は8強が1度にベスト16が5度。昨年の関東高校大会予選は準優勝し、本大会でも1勝した。中期的な目標は、県大会で常に8強から4強を狙える安定した力を身に付けることだ。
埼玉にはサッカー関係の知人が大勢いるうえ、常に優勝候補だった当時の武南OBということから恩恵も受けた。ともに県高体連サッカー専門部委員長だった田中龍太郎、二見元は武南の先輩で、多くの卒業生が指導者として活躍していたからだ。