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川崎の黎明期に躍動した元Jリーガーが“高校サッカーの指導者”として辿り着いた境地「悔しさを指導に生かしたいんです」

カテゴリ:Jリーグ

河野 正

2024年07月04日

「一度でいいから埼スタでレッズと戦いたかった」

怪我に苦しんだ現役時代。それでも“記憶に残るゴール”を決めた。写真:山田真市/アフロ

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 J1は今までとは別世界だったそうで、「観客数もメディアの数も露出度も全然違った。それに選手の質が高く、力を抜いて効率的にプレーしている人が多かった印象ですね」と往時を思い起こす。

 晴れやかなJ1の舞台では、アビスパ福岡との開幕戦から4試合続けて先発。あのVゴールを決めた後も、天皇杯3回戦でジェフユナイテッド市原から2得点するなど、好調さを堅持していた。
 
 だが好事魔多し。元々右足首の状態が悪く、それに加えて右ひざの内側と外側の痛みが治まらなくなった。手術するほどではないとの診断から、我慢しながら練習を続け試合にも出ていたが、「全然快方に向かわず、蹴ると痛くて仕方なかった。モヤモヤした気分を引きずり、出場しては離脱する悪循環でした」と苦々しい表情でこう言った。

 それでも初めて途中出場した第1ステージ第14節で初得点を決め、続く最終戦でも1-1の後半41分に送り込まれた。対戦相手のセレッソ大阪は、勝てば初のステージ優勝という一世一代の大仕事である。

 延長後半1分だ。我那覇和樹が右から入れた斜めのパスを、鮮やかな左足ボレーで右上に突き刺した。昇格を決める前年のVゴールに続き、またしても記憶に残る得点を刻んだのだ。「2回もおいしいところをもらっちゃいました。アップの時から今井さんに“早く出してくれ、出してくれ”ってアピールしていたんですよ」と嬉しそうに長居スタジアムでの出来事を説明した。

 今井敏明監督は前の4人についてはポジションを固定せず、流動的にプレーさせていた。「あの時の浦田は好調だったし、よく動き回る選手でした」と述べ、「俺に任せて下さい、ってアピールするのは大事なことですよ。私は監督時代、選手の目をちらっと見て確認したものです」と四半世紀前の記憶をよみがえらせた。
 
 ところが第2ステージに入ると右ひざの痛みが激しさを増した。ピッチに立ったのは4試合で、J2に降格した01年はさらに悪化。リーグ戦は控えに2度入っただけで、1試合も出場できずに契約満了となる。

 00年は川崎がJ1に昇格し、浦和レッズがJ2に降格した年だ。実家のある春日部市から埼玉スタジアムは近い。「一度でいいから埼スタでレッズと戦いたかった」と、この時ばかりは名残惜しそうだった。

 トライアウトで次の職場を探し、ヴァンフォーレ甲府が唯一手を挙げてくれたが、出場10試合で1得点。「ひざの痛みが限界に達し、子どもも生まれたので引退して次のことを考えないといけなかった」と腹を固めた。JFL、J2、J1と3つのカテゴリーで戦った6年間の短いプロ生活に別れを告げた。
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