自らのステップアップのためにプレーしていた東京V時代
琉球が誕生して15年あまり。その時を経て2019年、クラブはついにJ2のステージにたどり着いた。2月24日の開幕戦。沖縄のチームが初めて挑むその戦いを前に、琉球の10番を背負う男は格別な思いでいた。
「わくわくしている」
その一言が彼にとって、そしてサポーターにとって、どれだけの思いが込められているか。あらためてJ2は今までと違う格別なステージであるということを感じさせた。
東京ヴェルディのアカデミー出身の富所悠は、ユース時代から異彩を放っていた。パス・ドリブル・シュートと直感的なプレーで存在感を示し、サポーターからも将来を担う選手として期待をかけられていた。クラブがJ2に降格した2009年、富所はヴェルディのトップチームに昇格。当時の指揮官だった高木琢也監督、そしてシーズン途中からトップチームを率いることとなる松田岳夫監督の下、7試合の出場機会を得た。
「当時は高卒1年目。自分が中心でもなかったですし、好き勝手やっていましたね」
富所は若さゆえの貪欲さを抑えることなく、自らのステップアップのためにプレーしていた。しかしその翌年、クラブのJ1復帰が叶わず体制が大きく変わると、富所は出場機会を得られないまま親しんだクラブを離れることとなる。
その後、当時JFLの長野で1年間プレーし、2012年から同じカテゴリーの琉球に加入。時同じくして監督に就任した松田監督が声をかけたことをきっかけに、沖縄での生活が始まった。今でこそ様々なポジションでプレーできるユーティリティ性を持った富所だが、入った当時はトップ下にこだわりを持ち、陰で貢献するというタイプではなかった。加入1年目は高橋駿太(現・富山)とのコンビプレーが冴えわたり28試合に出場。しかしチームは9位と低迷し、1年限りで恩師との別れを迎える。
「わくわくしている」
その一言が彼にとって、そしてサポーターにとって、どれだけの思いが込められているか。あらためてJ2は今までと違う格別なステージであるということを感じさせた。
東京ヴェルディのアカデミー出身の富所悠は、ユース時代から異彩を放っていた。パス・ドリブル・シュートと直感的なプレーで存在感を示し、サポーターからも将来を担う選手として期待をかけられていた。クラブがJ2に降格した2009年、富所はヴェルディのトップチームに昇格。当時の指揮官だった高木琢也監督、そしてシーズン途中からトップチームを率いることとなる松田岳夫監督の下、7試合の出場機会を得た。
「当時は高卒1年目。自分が中心でもなかったですし、好き勝手やっていましたね」
富所は若さゆえの貪欲さを抑えることなく、自らのステップアップのためにプレーしていた。しかしその翌年、クラブのJ1復帰が叶わず体制が大きく変わると、富所は出場機会を得られないまま親しんだクラブを離れることとなる。
その後、当時JFLの長野で1年間プレーし、2012年から同じカテゴリーの琉球に加入。時同じくして監督に就任した松田監督が声をかけたことをきっかけに、沖縄での生活が始まった。今でこそ様々なポジションでプレーできるユーティリティ性を持った富所だが、入った当時はトップ下にこだわりを持ち、陰で貢献するというタイプではなかった。加入1年目は高橋駿太(現・富山)とのコンビプレーが冴えわたり28試合に出場。しかしチームは9位と低迷し、1年限りで恩師との別れを迎える。
そしてその翌年、汗をかく選手を求めるチーム編成となったことで出場機会を再び失ってしまう。かつて同じような経験をした彼にとって、この状況は耐え難いもので、時として感情が顔に出ることもあった。
ただこの経験が今の富所の姿を作った原点とも言える。本来トップ下は相手のマークを受けやすいポジションであるため、この位置でボールを摘まれると攻撃のリズムを失うこととなる。特別フィジカルが強い方ではなかった富所だが、チームは彼の攻撃センスを認めていて、それをどう生かすかというところを模索した時、ボランチの位置からゲームメイクを行なう「レジスタ」でのプレーを提案。トップ下でプレーするこだわりは捨てられないが、与えられたポジションで自分の存在を示せる道筋が見出されたことで、その考えを断る理由はなかった。
ただこの経験が今の富所の姿を作った原点とも言える。本来トップ下は相手のマークを受けやすいポジションであるため、この位置でボールを摘まれると攻撃のリズムを失うこととなる。特別フィジカルが強い方ではなかった富所だが、チームは彼の攻撃センスを認めていて、それをどう生かすかというところを模索した時、ボランチの位置からゲームメイクを行なう「レジスタ」でのプレーを提案。トップ下でプレーするこだわりは捨てられないが、与えられたポジションで自分の存在を示せる道筋が見出されたことで、その考えを断る理由はなかった。