【浦和】引退を決断した鈴木啓太。「子どもの頃から、山あり谷ありだった」という人生を変えたオシム日本代表元監督のひと言、その生き様にリンクするニーチェの哲学
カテゴリ:Jリーグ
2015年11月19日
「『知恵』と『勇気』を持て」。
「それはなし!」
さすがに危機察知力が高い。鈴木は間一髪、全身で先輩の“イタズラ”を阻止したのだった。
ただ、その対談を振り返ると、いくつもの深い言葉を残している(山田が引き出してくれた、と言うほうが正しい)。
決して輝いていた日々ばかりではない、むしろ苦しみの連続であったことを、鈴木は明かしている。
鈴木「僕は、耐える時代を経験してきたと思っているんです。チームがJ2に転落した2000年にレッズに入り、1年目は試合に出られなかったけど、J2を勝つのもそんなに簡単ではないと、常にギリギリな状況に置かれている独特の緊張感や苦しみを、練習中から感じていましたから」
山田「あそこでJ1に復帰できなかったら、今頃どうなっていたんだろうかって、ふと思うことがある。本当、ゾッとする」
鈴木「しかもJ1に戻ってからも、しばらくの間はジレンマが続きましたからね。ある程度の順位まで行けるけど、そこを越えられない。そんな時期をようやく乗り越えて、タイトルを獲れるようになっていった。それはそれで充実した時間だったけど、きっと、クラブがもっと上へ行くために、我慢しなければいけない時だったかもしれない」
そんなやりとりのあと、鈴木はこう言っている。
「僕はレッズと一緒に成長させてもらってきた。いろんなことが僕自身にも起きた。ただ、悩んだ時には、いつも傍に、お手本になる選手がたくさんいてくれた」
03年にナビスコカップを制し、05年に天皇杯、06年にリーグ優勝を達成。天皇杯も連覇を達成した。
そして07年には鈴木が主将を務め、アジア・チャンピオンズリーグを制した。日本代表でもイビチャ・オシム監督から“水を運ぶ人”として重宝された。
ちなみに鈴木は、オシム氏の「『知恵』と『勇気』を持て」というメッセージを、人生を変えたひと言に挙げている。
しかし……08年から、チームは無冠の時代に突入する。
鈴木にとっても、再び「耐える時代」が訪れる。09、10年のフォルカー・フィンケ体制下では、思い切った若手起用により出場機会を減らした。
さすがに危機察知力が高い。鈴木は間一髪、全身で先輩の“イタズラ”を阻止したのだった。
ただ、その対談を振り返ると、いくつもの深い言葉を残している(山田が引き出してくれた、と言うほうが正しい)。
決して輝いていた日々ばかりではない、むしろ苦しみの連続であったことを、鈴木は明かしている。
鈴木「僕は、耐える時代を経験してきたと思っているんです。チームがJ2に転落した2000年にレッズに入り、1年目は試合に出られなかったけど、J2を勝つのもそんなに簡単ではないと、常にギリギリな状況に置かれている独特の緊張感や苦しみを、練習中から感じていましたから」
山田「あそこでJ1に復帰できなかったら、今頃どうなっていたんだろうかって、ふと思うことがある。本当、ゾッとする」
鈴木「しかもJ1に戻ってからも、しばらくの間はジレンマが続きましたからね。ある程度の順位まで行けるけど、そこを越えられない。そんな時期をようやく乗り越えて、タイトルを獲れるようになっていった。それはそれで充実した時間だったけど、きっと、クラブがもっと上へ行くために、我慢しなければいけない時だったかもしれない」
そんなやりとりのあと、鈴木はこう言っている。
「僕はレッズと一緒に成長させてもらってきた。いろんなことが僕自身にも起きた。ただ、悩んだ時には、いつも傍に、お手本になる選手がたくさんいてくれた」
03年にナビスコカップを制し、05年に天皇杯、06年にリーグ優勝を達成。天皇杯も連覇を達成した。
そして07年には鈴木が主将を務め、アジア・チャンピオンズリーグを制した。日本代表でもイビチャ・オシム監督から“水を運ぶ人”として重宝された。
ちなみに鈴木は、オシム氏の「『知恵』と『勇気』を持て」というメッセージを、人生を変えたひと言に挙げている。
しかし……08年から、チームは無冠の時代に突入する。
鈴木にとっても、再び「耐える時代」が訪れる。09、10年のフォルカー・フィンケ体制下では、思い切った若手起用により出場機会を減らした。