【浦和】引退を決断した鈴木啓太。「子どもの頃から、山あり谷ありだった」という人生を変えたオシム日本代表元監督のひと言、その生き様にリンクするニーチェの哲学
カテゴリ:Jリーグ
2015年11月19日
「見返してやるぞ」という想いが、やる気の原動力になっていた。
それでも、鈴木は再び不死鳥のごとく鮮やかに、一方で雑草魂のごとく泥臭く、劇的な復活を遂げる。
再び転機となったのが、2012年、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の就任だった。
指揮官はキャンプ中、2年目の小島秀仁(現・愛媛)をボランチの主力組に入れてテストを重ねた。だが、シーズン開幕時、阿部とともにボランチに据えられたのは、鈴木だった。そして彼はレギュラーとして、戦い続けることになる。水を運ぶ人として、欠かせなかったのだ。
そのミシャ体制になった2012年10月には、「ターニングポイント」をテーマに、インタビューをした。先のオシム氏の言葉も、そこで聞いたものだ。
「子どもの頃から、山あり谷ありだった」
鈴木はそう笑って語っていた。
プロになってからの分岐点について、次のような「出会い」を挙げた。
「オリンピック(アテネ五輪)に落ちたこと、タイトルを初めて獲ったこと、アジア・チャンピオンズリーグを獲ったことあたりが節目になるんじゃないかと周りからは言われます。でも、僕は素晴らしい指導者に出会えてきたことが、大きかったと思っているんです」
「トップチームに引き上げてくれたピッタがいなければ、今の僕はいなかったかもしれない。オフトがレッズに来なければ、このクラブ自体が変わっていなかったかもしれない。ギド(ブッフバルト)の下ではリーグ優勝を果たせて、オシムさんの下では日本代表でプレーできた。そして今、ミシャの下で出来ている」
そして、「見返してやるぞ」という想いが、やる気の原動力になっているとも言っていた。
「僕の人生は、いつもそうでしたから。(静岡県)清水の出身で、僕より上手い選手なんて、本当にたくさんいた。自分に才能があるなんて思ったこともなく、子どもの頃からずっと山あり谷ありだった。だからこそ、周りに成長させてもらってきたと思っているんです」
鈴木はその「谷底」でもがきつつ、冷静さと客観的な眼を持って、自身がどうすればチームを勝たせる力になれるかを考え、実践に移していった。そうやって悔しさをも力に変えて、逞しさを増して這い上がってきた。
もちろん、そこには葛藤があった。
「苦しい時期は、言葉にできないぐらい、すごく苦しいんですけどね」
再び転機となったのが、2012年、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の就任だった。
指揮官はキャンプ中、2年目の小島秀仁(現・愛媛)をボランチの主力組に入れてテストを重ねた。だが、シーズン開幕時、阿部とともにボランチに据えられたのは、鈴木だった。そして彼はレギュラーとして、戦い続けることになる。水を運ぶ人として、欠かせなかったのだ。
そのミシャ体制になった2012年10月には、「ターニングポイント」をテーマに、インタビューをした。先のオシム氏の言葉も、そこで聞いたものだ。
「子どもの頃から、山あり谷ありだった」
鈴木はそう笑って語っていた。
プロになってからの分岐点について、次のような「出会い」を挙げた。
「オリンピック(アテネ五輪)に落ちたこと、タイトルを初めて獲ったこと、アジア・チャンピオンズリーグを獲ったことあたりが節目になるんじゃないかと周りからは言われます。でも、僕は素晴らしい指導者に出会えてきたことが、大きかったと思っているんです」
「トップチームに引き上げてくれたピッタがいなければ、今の僕はいなかったかもしれない。オフトがレッズに来なければ、このクラブ自体が変わっていなかったかもしれない。ギド(ブッフバルト)の下ではリーグ優勝を果たせて、オシムさんの下では日本代表でプレーできた。そして今、ミシャの下で出来ている」
そして、「見返してやるぞ」という想いが、やる気の原動力になっているとも言っていた。
「僕の人生は、いつもそうでしたから。(静岡県)清水の出身で、僕より上手い選手なんて、本当にたくさんいた。自分に才能があるなんて思ったこともなく、子どもの頃からずっと山あり谷ありだった。だからこそ、周りに成長させてもらってきたと思っているんです」
鈴木はその「谷底」でもがきつつ、冷静さと客観的な眼を持って、自身がどうすればチームを勝たせる力になれるかを考え、実践に移していった。そうやって悔しさをも力に変えて、逞しさを増して這い上がってきた。
もちろん、そこには葛藤があった。
「苦しい時期は、言葉にできないぐらい、すごく苦しいんですけどね」