歩んできた道のりは、“回り道”でも遠回りではない。
仙台に行く際、寿人は人生におけるひとつの大きな決断を下している。
「高校の頃から付き合っていた彼女が、大阪にもついてきてくれていたんです。それで仙台行きが決まった時、けじめをつけて結婚しようと思ったんです。結婚もしないで、いろいろ連れ回すのもどうかなという想いがあって。
でも一方で、まだ21歳だったし、プロで結果も残していない状況を考えれば、早いかなという想いもあった。向こうは別にそんなことは気にしていない感じだったから結婚したんですが、自分の中では仙台で結果を残さなければ、本当にやばいなというくらいの気持ちでした」
覚悟を決めて乗り込んだ仙台では当初、第3FWという立場だったものの、試合を重ねるごとに信頼を勝ち取っていき、結果的に30試合すべてに出場。チームトップの9得点をマークするとともに、初めてシーズンを通してフルに戦えたという自信も手にした。
その一方で、チームを降格させてしまったという責任感も背負い込んだ。シーズン終了後、その年J1に昇格した広島からのオファーを受けたが、悩むことなく断った。
「降格した責任は、やっぱり選手にあると思うので、それを取り戻すのも選手の仕事。それに仙台が初めてJ1に上がった時に自分が貢献していれば移籍もあったと思うけど、僕は上げた時にはいなかったくせに、落としただけでじゃんと思って。それでは、チームを離れることはできないなと。
いろんな人に話を聞いても、広島に行ったほうがいいっていう意見のほうが多かった。でも自分のなかでは、仙台をJ1に戻したいという気持ちは変わりませんでした」
そうして翌年も仙台に留まった寿人は、44試合に出場し、20得点とゴールを量産。チームは6位に終わり、再昇格させるという目標は叶わなかったが、寿人の中ではやり遂げたという想いがあった。
05年、1年遅れでの広島入りを決意した寿人は、シーズン序盤こそ苦しんだものの、J2時代に培った得点力を次第に発揮し、終わってみれば日本人トップの18得点をマーク。ベストイレブンを受賞し、ついには日本代表まで登り詰めた。
プロ入り7年目での日本代表入り。その道程はもしかすれば、大きな回り道だったのかもしれない。今の日本代表メンバーを見ても、これだけ移籍を経験し、J2も味わった選手は、C大阪、大分、FC東京、G大阪と渡り歩いた加地亮(現・岡山)くらいだ。
しかし、寿人はここまでの道のりを、決して遠回りだと思っていない。そこで得たかけがえのない経験が成長を促してくれたのだから。
「確かに今の代表のメンバーは、王道と言うか、早くからチームの主力として活躍し、ユースや五輪で世界を経験して代表にステップアップした人がほとんど。でも僕の場合は、今のままで良かったかなと。いろんなチームに行って、いろんな経験をしたからこそ、代表に入れたと思うから。
例えば、ずっとジェフにいたら、全然結果を残せなくて、今頃はクビになっていたかもしれない。もちろん今までの決断が正しかったか、間違っていたかは分からない。でも自分が決めたことに対して後悔の気持ちはないです」
回り道を経験したからこそ、今がある。そんな自分を寿人は、誇らしくさえ思っているようだ。一方でその道程は、いまなおゴールに達していないという想いがある。なぜなら寿人の中には、いまだなにも成し得ていないという気持ちがあるからだ。
チームを優勝に導いたこともなければ、得点王を獲ったこともない。日本代表での地位を確立したわけでもない。だから今後もその道を歩み続け、多くの経験を身につけなければいけないと感じている。それでも寿人は無邪気に笑う。
「僕は這い上がって行くのが得意ですからね」
小学校の頃、マンションの隙間の小さなスペースでボールを蹴り始めた少年は、今や日本のトップステージで燦然と輝きを放っている。だが、いまだ這い上がることを止めない。果たしてどこまで、その舞台を大きくしていくのだろうか。
「高校の頃から付き合っていた彼女が、大阪にもついてきてくれていたんです。それで仙台行きが決まった時、けじめをつけて結婚しようと思ったんです。結婚もしないで、いろいろ連れ回すのもどうかなという想いがあって。
でも一方で、まだ21歳だったし、プロで結果も残していない状況を考えれば、早いかなという想いもあった。向こうは別にそんなことは気にしていない感じだったから結婚したんですが、自分の中では仙台で結果を残さなければ、本当にやばいなというくらいの気持ちでした」
覚悟を決めて乗り込んだ仙台では当初、第3FWという立場だったものの、試合を重ねるごとに信頼を勝ち取っていき、結果的に30試合すべてに出場。チームトップの9得点をマークするとともに、初めてシーズンを通してフルに戦えたという自信も手にした。
その一方で、チームを降格させてしまったという責任感も背負い込んだ。シーズン終了後、その年J1に昇格した広島からのオファーを受けたが、悩むことなく断った。
「降格した責任は、やっぱり選手にあると思うので、それを取り戻すのも選手の仕事。それに仙台が初めてJ1に上がった時に自分が貢献していれば移籍もあったと思うけど、僕は上げた時にはいなかったくせに、落としただけでじゃんと思って。それでは、チームを離れることはできないなと。
いろんな人に話を聞いても、広島に行ったほうがいいっていう意見のほうが多かった。でも自分のなかでは、仙台をJ1に戻したいという気持ちは変わりませんでした」
そうして翌年も仙台に留まった寿人は、44試合に出場し、20得点とゴールを量産。チームは6位に終わり、再昇格させるという目標は叶わなかったが、寿人の中ではやり遂げたという想いがあった。
05年、1年遅れでの広島入りを決意した寿人は、シーズン序盤こそ苦しんだものの、J2時代に培った得点力を次第に発揮し、終わってみれば日本人トップの18得点をマーク。ベストイレブンを受賞し、ついには日本代表まで登り詰めた。
プロ入り7年目での日本代表入り。その道程はもしかすれば、大きな回り道だったのかもしれない。今の日本代表メンバーを見ても、これだけ移籍を経験し、J2も味わった選手は、C大阪、大分、FC東京、G大阪と渡り歩いた加地亮(現・岡山)くらいだ。
しかし、寿人はここまでの道のりを、決して遠回りだと思っていない。そこで得たかけがえのない経験が成長を促してくれたのだから。
「確かに今の代表のメンバーは、王道と言うか、早くからチームの主力として活躍し、ユースや五輪で世界を経験して代表にステップアップした人がほとんど。でも僕の場合は、今のままで良かったかなと。いろんなチームに行って、いろんな経験をしたからこそ、代表に入れたと思うから。
例えば、ずっとジェフにいたら、全然結果を残せなくて、今頃はクビになっていたかもしれない。もちろん今までの決断が正しかったか、間違っていたかは分からない。でも自分が決めたことに対して後悔の気持ちはないです」
回り道を経験したからこそ、今がある。そんな自分を寿人は、誇らしくさえ思っているようだ。一方でその道程は、いまなおゴールに達していないという想いがある。なぜなら寿人の中には、いまだなにも成し得ていないという気持ちがあるからだ。
チームを優勝に導いたこともなければ、得点王を獲ったこともない。日本代表での地位を確立したわけでもない。だから今後もその道を歩み続け、多くの経験を身につけなければいけないと感じている。それでも寿人は無邪気に笑う。
「僕は這い上がって行くのが得意ですからね」
小学校の頃、マンションの隙間の小さなスペースでボールを蹴り始めた少年は、今や日本のトップステージで燦然と輝きを放っている。だが、いまだ這い上がることを止めない。果たしてどこまで、その舞台を大きくしていくのだろうか。