「あのまま日本にいたら今の自分は絶対にないと言い切れる」
すべての始まりは、磐田からの退団だった。
「日本にいた時は、特に英語の必要性をあまり感じていなかった。すべてはジュビロをクビになったのが大きかったよね」
2010年7月に戦力外通告を言い渡された後、J2の熊本へと新天地を求めた。しかしその直後、転機が訪れる。
「ジュビロを出てロアッソに移籍したけど……。後がない状況に追い込まれていた。海外に出ないと消えてしまう、そう思っていた時に海外移籍の話が舞い込んできた」
北アイルランド人の父親と日本人の母親の間に生まれたカレンは、北アイルランドと日本の二重国籍を持つ。欧州でプレーする場合、日本人ならば外国人枠となるが、カレンならばEU加盟国である北アイルランド人としても登録できる。いつかイングランドの地で、家族みんなで一緒に生活したいという想いは、両親のかねてからの夢でもあった。
「話があったのはちょうどロアッソに移籍した直後。すぐに気持ちはヨーロッパに傾いた。代理人とトラブルが起きたりしたけど、どうにかVVVのトライアウトを受けてオランダへ行けた。振り返っても、あのまま日本にいたら今の自分は絶対にないと言い切れる。僕のサッカー人生のキャリアは、ずっと前に終わっていたと思う」
ピンチの後にチャンスあり。絶体絶命と思われた状況は、海外移籍のチャンスへとつながった。
オランダに渡ると、それまでの状況が嘘のように、視界が広がった。サッカー選手として、まだステップアップの余地は残されている。自分自身の可能性を強く感じた。
VVVでは1年目こそ24番をつけていたが、1シーズンの活躍で周囲の反応が変わる。2年目には、本田圭佑がつけていた背番号10を与えられたのである。
「10番へのこだわりはそれほどない。でも、外からの見方が変わってくる。J1で100試合以上出ていて、ヨーロッパのクラブで10番を背負ってプレーしていたという肩書きは、思った以上に大きいからね。北アイルランド代表入りのオファーもあったし、タイのクラブの食いつきも良かった。ヨーロッパを中心に移籍先を探してもなかなか見つからなかったのに、タイのクラブに話を振ったら、たったの2日でオファーが届いたんだから」
「日本にいた時は、特に英語の必要性をあまり感じていなかった。すべてはジュビロをクビになったのが大きかったよね」
2010年7月に戦力外通告を言い渡された後、J2の熊本へと新天地を求めた。しかしその直後、転機が訪れる。
「ジュビロを出てロアッソに移籍したけど……。後がない状況に追い込まれていた。海外に出ないと消えてしまう、そう思っていた時に海外移籍の話が舞い込んできた」
北アイルランド人の父親と日本人の母親の間に生まれたカレンは、北アイルランドと日本の二重国籍を持つ。欧州でプレーする場合、日本人ならば外国人枠となるが、カレンならばEU加盟国である北アイルランド人としても登録できる。いつかイングランドの地で、家族みんなで一緒に生活したいという想いは、両親のかねてからの夢でもあった。
「話があったのはちょうどロアッソに移籍した直後。すぐに気持ちはヨーロッパに傾いた。代理人とトラブルが起きたりしたけど、どうにかVVVのトライアウトを受けてオランダへ行けた。振り返っても、あのまま日本にいたら今の自分は絶対にないと言い切れる。僕のサッカー人生のキャリアは、ずっと前に終わっていたと思う」
ピンチの後にチャンスあり。絶体絶命と思われた状況は、海外移籍のチャンスへとつながった。
オランダに渡ると、それまでの状況が嘘のように、視界が広がった。サッカー選手として、まだステップアップの余地は残されている。自分自身の可能性を強く感じた。
VVVでは1年目こそ24番をつけていたが、1シーズンの活躍で周囲の反応が変わる。2年目には、本田圭佑がつけていた背番号10を与えられたのである。
「10番へのこだわりはそれほどない。でも、外からの見方が変わってくる。J1で100試合以上出ていて、ヨーロッパのクラブで10番を背負ってプレーしていたという肩書きは、思った以上に大きいからね。北アイルランド代表入りのオファーもあったし、タイのクラブの食いつきも良かった。ヨーロッパを中心に移籍先を探してもなかなか見つからなかったのに、タイのクラブに話を振ったら、たったの2日でオファーが届いたんだから」