“山の神”とともに箱根を制す。
どちらと言えば弱小の部類に入る陸上部で、山本の走力は抜きん出ていた。当然のように、高校の駅伝ではエース区間である1区を担当。遅くても6位以内で中継所に飛び込んできたため、他校の関係者は驚いた。強豪とはほど遠い川口北高が、1区を終えて一桁順位をキープすることなど、これまでになかったからだ。
本格的に陸上を始めてからまだ1年も経っていないにもかかわらず、国体の予選で3位に入るなど、メキメキと頭角を現わしていった山本には、5~6校の大学からオファーが舞い込んだ。全国的に見れば、目立つようなタイムを残したわけではなかったが、「サッカー部上がりでこれだけ走れるんだから、大化けするかもしれない」と、そのポテンシャルを見込まれたのだった。
「これまで陸上をやってこなかったので、大学のカラーとか、そういうものにまったく無知だった」という山本は、顧問の勧めもあって東洋大に進学。スカウトしてくれた佐藤尚コーチの存在も大きかった。
当時は箱根駅伝で予選落ちをするなど、現在ほどの強豪校とは言えなかったとはいえ、トップクラスの集団だ。最初の朝練では「こんなに走るのか」と面食らったものの、慣れるまでにそれほど時間はかからなかった。
はじめはBチームだったが、ある時Aチームの設定タイムに果敢に挑んで自信をつけると、あれよあれよとAチームに昇格。その後も川嶋伸次監督の下で力をつけ、自己ベストを連発していった。
本格的に陸上を始めてからまだ1年も経っていないにもかかわらず、国体の予選で3位に入るなど、メキメキと頭角を現わしていった山本には、5~6校の大学からオファーが舞い込んだ。全国的に見れば、目立つようなタイムを残したわけではなかったが、「サッカー部上がりでこれだけ走れるんだから、大化けするかもしれない」と、そのポテンシャルを見込まれたのだった。
「これまで陸上をやってこなかったので、大学のカラーとか、そういうものにまったく無知だった」という山本は、顧問の勧めもあって東洋大に進学。スカウトしてくれた佐藤尚コーチの存在も大きかった。
当時は箱根駅伝で予選落ちをするなど、現在ほどの強豪校とは言えなかったとはいえ、トップクラスの集団だ。最初の朝練では「こんなに走るのか」と面食らったものの、慣れるまでにそれほど時間はかからなかった。
はじめはBチームだったが、ある時Aチームの設定タイムに果敢に挑んで自信をつけると、あれよあれよとAチームに昇格。その後も川嶋伸次監督の下で力をつけ、自己ベストを連発していった。
そして、最初の晴れ舞台となる全日本大学駅伝で、1年生にして準エース区間である4区に抜擢される。結果は散々だったが、この経験は大きかった。「いま思うと期待されていたんだなと思いますね」と当時を振り返る。
箱根駅伝でも7区を走り、2年でも大学三大駅伝すべてに出場。順調にステップアップしていく山本と比例するかのように、チーム自体も強くなり、そして4年の時に集大成を迎える。箱根駅伝で初優勝を飾るのだ。
各校のエースが集う2区を任された山本は区間17位と不本意な結果に終わるも、チームメイトの巻き返しで初の戴冠を果たす。1年生ながら5区で区間新記録を出して優勝を手繰り寄せたのは、“山の神”こと柏原竜二だった。
箱根駅伝でも7区を走り、2年でも大学三大駅伝すべてに出場。順調にステップアップしていく山本と比例するかのように、チーム自体も強くなり、そして4年の時に集大成を迎える。箱根駅伝で初優勝を飾るのだ。
各校のエースが集う2区を任された山本は区間17位と不本意な結果に終わるも、チームメイトの巻き返しで初の戴冠を果たす。1年生ながら5区で区間新記録を出して優勝を手繰り寄せたのは、“山の神”こと柏原竜二だった。