「サッカーを続けていても先はない」と転向を決意。
「陸上の大会に出てみたらどうだ」
きっかけは、高校時代にサッカー部の顧問から言われたこの一言だった。校内のマラソン大会では常に断トツ。長距離を走る能力はずば抜けていた。
「このままサッカーを続けていても、先はない。陸上にトライすれば道が拓けるかもしれない」
最初は小さかった思いが、だんだん抑えきれなくなっていく。高校3年に上がるタイミングで、思い切って打ち明けた。「一度、陸上の大会に出させてください」
サッカーに見切りをつけた瞬間だった――。
山本浩之が本格的にボールを蹴り始めたのは、小学2年の時。さいたま市下落合のスポーツ少年団に入団したのだ。
小学生時代は主に右ウイングでプレイしていたが、6年の時にはチーム事情でCBも経験。身体は小さく華奢だったが当時からスタミナは抜群で、敵のエースストライカーをマンマークする役を任された。
埼玉出身とあって、贔屓にしていたのは浦和レッズだ。当時在籍していた小野伸二(現コンサドーレ札幌)や山田暢久のファンで、スアジアムにもたびたび足を運んだ。
与野東中でも迷わずサッカー部へ入部。主に左サイドハーフや左SBなどを担った。県大会に進むなど、チームもそこそこ強かったという。
きっかけは、高校時代にサッカー部の顧問から言われたこの一言だった。校内のマラソン大会では常に断トツ。長距離を走る能力はずば抜けていた。
「このままサッカーを続けていても、先はない。陸上にトライすれば道が拓けるかもしれない」
最初は小さかった思いが、だんだん抑えきれなくなっていく。高校3年に上がるタイミングで、思い切って打ち明けた。「一度、陸上の大会に出させてください」
サッカーに見切りをつけた瞬間だった――。
山本浩之が本格的にボールを蹴り始めたのは、小学2年の時。さいたま市下落合のスポーツ少年団に入団したのだ。
小学生時代は主に右ウイングでプレイしていたが、6年の時にはチーム事情でCBも経験。身体は小さく華奢だったが当時からスタミナは抜群で、敵のエースストライカーをマンマークする役を任された。
埼玉出身とあって、贔屓にしていたのは浦和レッズだ。当時在籍していた小野伸二(現コンサドーレ札幌)や山田暢久のファンで、スアジアムにもたびたび足を運んだ。
与野東中でも迷わずサッカー部へ入部。主に左サイドハーフや左SBなどを担った。県大会に進むなど、チームもそこそこ強かったという。
高校は、サッカー部の顧問の勧めで、埼玉県立川口北高に進学。当時はいわば最盛期で、メンバー入りはできなかったとはいえ、1年の時にはインターハイ予選、選手権予選ともにベスト4に勝ち進んだ。
2軍や3軍を行き来していた2年生の時、チャンスが巡ってきた。持久力を買われてFWで先発する機会を得たのだ。「前線で敵を掻きまわしてこい」と指示を受けて送り出されるも、監督の期待には応えられず。「あれだけスタミナがあるんだから、もう少しできるだろう」と叱られた。一軍のメンバー入りは遠のいていった。
そんなタイミングで決断したのが、陸上への転向だった。インターハイの予選が終わるまでは、陸上部とサッカー部の掛け持ち。だが、気持ちは完全に前者に傾き、いつしか陸上の練習がメインとなっていた。そんな状況でも、突然サッカー部の試合に駆り出されることもあったという。
サッカー部のインターハイ予選が終わった時点で“二刀流”に終止符を打ち、陸上一本に。ここから、シンデレラストーリーが始まるのだ。
2軍や3軍を行き来していた2年生の時、チャンスが巡ってきた。持久力を買われてFWで先発する機会を得たのだ。「前線で敵を掻きまわしてこい」と指示を受けて送り出されるも、監督の期待には応えられず。「あれだけスタミナがあるんだから、もう少しできるだろう」と叱られた。一軍のメンバー入りは遠のいていった。
そんなタイミングで決断したのが、陸上への転向だった。インターハイの予選が終わるまでは、陸上部とサッカー部の掛け持ち。だが、気持ちは完全に前者に傾き、いつしか陸上の練習がメインとなっていた。そんな状況でも、突然サッカー部の試合に駆り出されることもあったという。
サッカー部のインターハイ予選が終わった時点で“二刀流”に終止符を打ち、陸上一本に。ここから、シンデレラストーリーが始まるのだ。