フットボールの価値観を変え、偉大な功績を残したクライフ。
そのクライフが躍動した1974年の西ドイツ・ワールドカップの時、私は6歳だった。マリオ・ザガロが率いて、当時最強と謳われたブラジルよりも、「トータルフットボール」を標榜したオランダを見ることに幼い私は執着していた。
この時のオランダとクライフは、私がワールドカップを振り返る時に常に思い出すチームであり、プレー映像は今も鮮明に記憶している。
インターネットやテレビ放送技術が今ほど発達しておらず、世界中でいつでも試合や選手の情報を見ることはできなかった時代に、テレビ画面の向こう側のオレンジ軍団の美しさは映えて見えた。
もちろん、私もひとりのフットボーラーであったから、大会前からクライフについては知っていたが、憧れを抱いたのはその時が始めてだった。
そんな彼を生で始めて見たのは5年後、NASL(北米サッカーリーグ)のLAアズテックスの一員として、スタンフォード・ブリッジでチェルシーと親善試合を行なった1979年のことだ。彼を目にする最初で最後のチャンスと思った私は「連れいってほしい」と父を説得した。
10月の寒い夜だった。すでにフットボーラーとして晩年期に入っていたクライフではあったが、相変わらずプレーは上品で、チェルシーの面々を翻弄し、試合を支配した。スタジアムは寒さを忘れるほど熱気に包まれていた。
長年、多くのフットボーラーを見てきたが、クライフほど完璧に周囲の期待に応える選手を見たことがない。そして、私はそんなクライフを目にしたのだ。
「史上最も優れたフットボーラーは誰か?」
この問いに、フットボールを愛する人々はペレやディエゴ・マラドーナ、メッシなど様々な選手の名前が挙げるだろう。しかし、私はクライフを推す。
彼はただの選手ではなく、70年代にフットボールの価値観を変えた。そしてそのスタイルは今も生き続けているのだから彼の功績は偉大である。
文:スティーブ・マッケンジー
この時のオランダとクライフは、私がワールドカップを振り返る時に常に思い出すチームであり、プレー映像は今も鮮明に記憶している。
インターネットやテレビ放送技術が今ほど発達しておらず、世界中でいつでも試合や選手の情報を見ることはできなかった時代に、テレビ画面の向こう側のオレンジ軍団の美しさは映えて見えた。
もちろん、私もひとりのフットボーラーであったから、大会前からクライフについては知っていたが、憧れを抱いたのはその時が始めてだった。
そんな彼を生で始めて見たのは5年後、NASL(北米サッカーリーグ)のLAアズテックスの一員として、スタンフォード・ブリッジでチェルシーと親善試合を行なった1979年のことだ。彼を目にする最初で最後のチャンスと思った私は「連れいってほしい」と父を説得した。
10月の寒い夜だった。すでにフットボーラーとして晩年期に入っていたクライフではあったが、相変わらずプレーは上品で、チェルシーの面々を翻弄し、試合を支配した。スタジアムは寒さを忘れるほど熱気に包まれていた。
長年、多くのフットボーラーを見てきたが、クライフほど完璧に周囲の期待に応える選手を見たことがない。そして、私はそんなクライフを目にしたのだ。
「史上最も優れたフットボーラーは誰か?」
この問いに、フットボールを愛する人々はペレやディエゴ・マラドーナ、メッシなど様々な選手の名前が挙げるだろう。しかし、私はクライフを推す。
彼はただの選手ではなく、70年代にフットボールの価値観を変えた。そしてそのスタイルは今も生き続けているのだから彼の功績は偉大である。
文:スティーブ・マッケンジー

スティーブ・マッケンジー (STEVE MACKENZIE)
profile/1968年6月7日にロンドンに生まれる。ウェストハムとサウサンプトンのユースでのプレー経験があり、とりわけウェストハムへの思い入れが強く、ユース時代からサポーターになった。また、スコットランド代表のファンでもある。大学時代はサッカーの奨学生として米国の大学で学び、1989年のNCAA(全米大学体育協会)主催の大会で優勝に輝く。