大抜擢されたユーベで復権の立役者となり一気に名を揚げる。

アグレッシブなMFだった現役時代は、13年間に渡ってプレーしたユーベの黄金時代を支える。20試合・2得点の記録を残したイタリア代表では、94年W杯とEURO2000に出場した。(C)Getty Images

現役引退後はすぐにコーチングライセンスを取得し、指導者の道へ。「偉大なカンピオーネ(名手)になれるとは一度も思わなかった。でも、優秀な監督になれる自信はあった」という発言通り、選手時代以上の名声を掴むことになる。(C)Getty Images
(2)選手&監督としてのキャリア
1969年7月31日、レッチェ生まれ。地元レッチェの育成部門で育ち、16歳でセリエAにデビューした。19歳にして早くも不動のレギュラーとなり、21歳を迎えた91-92シーズン途中には名門ユーベに引き抜かれるというエリートコースを歩む。
そのユーベでは、傑出したダイナミズムと安定したテクニックを兼ね備え、質の高いハードワークで攻守両局面に貢献できるMFとして、2004年まで13シーズンに渡ってプレー。ほぼ常に準レギュラーという立場にありながら、01年まで5年間に渡ってキャプテンを務めるなど、ユーベ黄金時代を名脇役として彩った。
04年の引退後はすぐに監督に転身。シエナで助監督を1年間務めた後、セリエBのアレッツォ(06-07シーズン)を皮切りに、バーリ(セリエB)、アタランタ(セリエA)、シエナ(セリエB)の指揮官を歴任。後に詳しく触れる4-2-4システムを駆使して、バーリとシエナをそれぞれA昇格に導くという大きな実績を残した。
それが評価される形で11-12シーズン、セリエAでまだほとんど実績がなかったにもかかわらず、過去2シーズン連続で7位に低迷していた古巣ユーベの監督に大抜擢された。
実のところは、ワルテル・マッザーリ(前インテル監督)、アンドレ・ヴィラス=ボアス(現ゼニト監督)といった候補との交渉が不調に終わった後の“サードチョイス”だったが、結果的にはユーベとコンテのお互いにとって、これが最高の選択となった。
コンテはこの年にミランから加入した司令塔アンドレア・ピルロ(現ニューヨーク・シティ)を機能させるため、当初4-2-4でスタートしたシステムを4-3-3に変更するなど、自らの戦術をチームに合わせてブラッシュアップ。結果、なんと無敗でシーズンを乗り切り、就任1年目にしてクラブにとって6年ぶりのスクデットをもたらす。カルチョポリ事件の処罰よるセリエB降格(06-07シーズン)で名声に傷が付いた名門を、見事に復権させたのだ。
さらに続く12-13シーズン、そして13-14シーズンも圧倒的な強さで首位の座を保ち続けてセリエA3連覇を達成。一気にイタリアを代表する名監督としての評価を確立した。その後、「このテンションとモチベーションを維持していくことは、私にとってもチームにとっても難しい」という理由で辞意を表明したが、アンドレア・アニェッリ会長をはじめとする首脳陣の説得にとって一度は留任を決意する。
しかし、4連覇に向けてスタートを切った直後の2014年7月、プレシーズンキャンプの2日目に「やはり無理だということがわかった」として電撃辞任を表明。ユーベを去った。
その1か月後、同年6月のブラジル・ワールドカップで2大会連続のグループステージ敗退の責任を取って辞任したチェーザレ・プランデッリ(元ガラタサライ監督)の後任として、イタリア代表監督に就任した。
EURO2016予選ではクロアチア、ノルウェー、ブルガリアなどと同居したグループHを無敗(7勝3分け)で首位通過。今夏にフランスで行われる本大会への出場を決めている。
1969年7月31日、レッチェ生まれ。地元レッチェの育成部門で育ち、16歳でセリエAにデビューした。19歳にして早くも不動のレギュラーとなり、21歳を迎えた91-92シーズン途中には名門ユーベに引き抜かれるというエリートコースを歩む。
そのユーベでは、傑出したダイナミズムと安定したテクニックを兼ね備え、質の高いハードワークで攻守両局面に貢献できるMFとして、2004年まで13シーズンに渡ってプレー。ほぼ常に準レギュラーという立場にありながら、01年まで5年間に渡ってキャプテンを務めるなど、ユーベ黄金時代を名脇役として彩った。
04年の引退後はすぐに監督に転身。シエナで助監督を1年間務めた後、セリエBのアレッツォ(06-07シーズン)を皮切りに、バーリ(セリエB)、アタランタ(セリエA)、シエナ(セリエB)の指揮官を歴任。後に詳しく触れる4-2-4システムを駆使して、バーリとシエナをそれぞれA昇格に導くという大きな実績を残した。
それが評価される形で11-12シーズン、セリエAでまだほとんど実績がなかったにもかかわらず、過去2シーズン連続で7位に低迷していた古巣ユーベの監督に大抜擢された。
実のところは、ワルテル・マッザーリ(前インテル監督)、アンドレ・ヴィラス=ボアス(現ゼニト監督)といった候補との交渉が不調に終わった後の“サードチョイス”だったが、結果的にはユーベとコンテのお互いにとって、これが最高の選択となった。
コンテはこの年にミランから加入した司令塔アンドレア・ピルロ(現ニューヨーク・シティ)を機能させるため、当初4-2-4でスタートしたシステムを4-3-3に変更するなど、自らの戦術をチームに合わせてブラッシュアップ。結果、なんと無敗でシーズンを乗り切り、就任1年目にしてクラブにとって6年ぶりのスクデットをもたらす。カルチョポリ事件の処罰よるセリエB降格(06-07シーズン)で名声に傷が付いた名門を、見事に復権させたのだ。
さらに続く12-13シーズン、そして13-14シーズンも圧倒的な強さで首位の座を保ち続けてセリエA3連覇を達成。一気にイタリアを代表する名監督としての評価を確立した。その後、「このテンションとモチベーションを維持していくことは、私にとってもチームにとっても難しい」という理由で辞意を表明したが、アンドレア・アニェッリ会長をはじめとする首脳陣の説得にとって一度は留任を決意する。
しかし、4連覇に向けてスタートを切った直後の2014年7月、プレシーズンキャンプの2日目に「やはり無理だということがわかった」として電撃辞任を表明。ユーベを去った。
その1か月後、同年6月のブラジル・ワールドカップで2大会連続のグループステージ敗退の責任を取って辞任したチェーザレ・プランデッリ(元ガラタサライ監督)の後任として、イタリア代表監督に就任した。
EURO2016予選ではクロアチア、ノルウェー、ブルガリアなどと同居したグループHを無敗(7勝3分け)で首位通過。今夏にフランスで行われる本大会への出場を決めている。