【F~J】選手としても監督しても変革をもたらしたクライフ。
F
FIGO(フィーゴ)
2000年夏、当時のバルサ屈指のスター選手だったルイス・フィーゴは、「俺は誓ってどこにも行かない」と明言しながら、その2日後にマドリーに鞍替え。移籍直後のクラシコでは、CKを蹴ろうとしたフィーゴにビンやペットボトル、さらに豚の頭などが投げ込まれる大暴動となった。バルサからマドリーに移籍した選手は17人を数えるが(他クラブを経由した選手を含めると計21人)、いまでも「ユダ(裏切り者)」、「ペセテーロ(守銭奴)」と呼ばれるフィーゴほど、バルセロニスタに恨み嫌われている選手はいない。
G
GAMPER(ガンペール)
スイス人のジョアン・ガンペール(カタルーニャ語名。母国語名はハンス・ガンパー)は、バルサの創始者。1899年10月22日、『ロス・デポルテス』紙に選手募集を掲載し、同年11月29日にバルサを創設した。その9日後の12月8日には、バルセロナ在英国人チームと初試合を戦っている(0-1で敗戦)。当初は選手、晩年は会長としてバルサの発展に尽力し、1930年に52歳で永眠。ソシオの「会員ナンバー1」が贈られた。66年から夏のプレシーズンに「ガンペール杯」が開催され(96年まではバルサを含む4チーム参加のトーナメント戦、97年からはバルサ対招待チームの1試合)、06年6月に開場したトレーニングセンターにもその名が冠されている。
H
HIMUNO(イムノ)
本拠地カンプ・ノウでの選手入場時に、高らかに鳴り響くのが「イムノ」(スペイン語で「応援歌」、「聖歌」の意味)。現在の『カント・デル・バルサ(バルサ賛歌)』は、クラブ史上4代目のイムノで、クラブ創設75周年記念して1974年に制作された。「私たちは知っている 一つの旗が私たちを団結させることを」などクラブ精神を体現した歌詞、リズムカルなメロディー、そして最後の『バルサ!! バルサ!! バールサ!!』という掛け声など、一度聴いたら忘れられない印象的な一曲だ。
I
IDIOMA BARCA(イディオマ・バルサ)
スペイン語で直訳すると「バルサの言語」だが、「バルサ・スタイル」とも言い換えられるだろう。独自のサッカーを志向するバルサでは、カンテラで学ぶ一貫したプレーモデルが大きな肝。とくにグアルディオラ監督時代(08~12年)はそれが顕著で、ティエリ・アンリやズラタン・イブラヒモビッチ(現パリSG)、アレクシス・サンチェス(現アーセナル)などワールドクラスが順応に苦労して力を出し切れなかった一方で、カンテラから昇格したセルヒオ・ブスケッツやペドロ・ロドリゲス(現チェルシー)、“出戻り”のジェラール・ピケやセスク・ファブレガス(現チェルシー)らは瞬く間に順応し、主力として活躍した。
J
JOHAN(ヨハン)
クラブ史上屈指のレジェンドが、ヨハン・クライフだ。1973~79年に選手として、89~95年に監督して数多くのタイトルに貢献。アヤックスに習ったラ・マシア創設を提唱したのも、このオランダ人だった。95年に健康上の理由から第一線を退いた後も、非公式ながらバルサのアドバイザー的な立場におり、ジョアン・ラポルタの会長時代は、フランク・ライカールトとグアルディオラの監督就任を後押した。2010年4月にバルサの名誉会長に就任したが、敵対するサンドロ・ロセイの会長就任によりわずか3か月でそれを返上。その後もバルサのご意見番として人気を集めるが、現在は肺癌を患い闘病生活を送っている。
FIGO(フィーゴ)
2000年夏、当時のバルサ屈指のスター選手だったルイス・フィーゴは、「俺は誓ってどこにも行かない」と明言しながら、その2日後にマドリーに鞍替え。移籍直後のクラシコでは、CKを蹴ろうとしたフィーゴにビンやペットボトル、さらに豚の頭などが投げ込まれる大暴動となった。バルサからマドリーに移籍した選手は17人を数えるが(他クラブを経由した選手を含めると計21人)、いまでも「ユダ(裏切り者)」、「ペセテーロ(守銭奴)」と呼ばれるフィーゴほど、バルセロニスタに恨み嫌われている選手はいない。
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GAMPER(ガンペール)
スイス人のジョアン・ガンペール(カタルーニャ語名。母国語名はハンス・ガンパー)は、バルサの創始者。1899年10月22日、『ロス・デポルテス』紙に選手募集を掲載し、同年11月29日にバルサを創設した。その9日後の12月8日には、バルセロナ在英国人チームと初試合を戦っている(0-1で敗戦)。当初は選手、晩年は会長としてバルサの発展に尽力し、1930年に52歳で永眠。ソシオの「会員ナンバー1」が贈られた。66年から夏のプレシーズンに「ガンペール杯」が開催され(96年まではバルサを含む4チーム参加のトーナメント戦、97年からはバルサ対招待チームの1試合)、06年6月に開場したトレーニングセンターにもその名が冠されている。
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HIMUNO(イムノ)
本拠地カンプ・ノウでの選手入場時に、高らかに鳴り響くのが「イムノ」(スペイン語で「応援歌」、「聖歌」の意味)。現在の『カント・デル・バルサ(バルサ賛歌)』は、クラブ史上4代目のイムノで、クラブ創設75周年記念して1974年に制作された。「私たちは知っている 一つの旗が私たちを団結させることを」などクラブ精神を体現した歌詞、リズムカルなメロディー、そして最後の『バルサ!! バルサ!! バールサ!!』という掛け声など、一度聴いたら忘れられない印象的な一曲だ。
I
IDIOMA BARCA(イディオマ・バルサ)
スペイン語で直訳すると「バルサの言語」だが、「バルサ・スタイル」とも言い換えられるだろう。独自のサッカーを志向するバルサでは、カンテラで学ぶ一貫したプレーモデルが大きな肝。とくにグアルディオラ監督時代(08~12年)はそれが顕著で、ティエリ・アンリやズラタン・イブラヒモビッチ(現パリSG)、アレクシス・サンチェス(現アーセナル)などワールドクラスが順応に苦労して力を出し切れなかった一方で、カンテラから昇格したセルヒオ・ブスケッツやペドロ・ロドリゲス(現チェルシー)、“出戻り”のジェラール・ピケやセスク・ファブレガス(現チェルシー)らは瞬く間に順応し、主力として活躍した。
J
JOHAN(ヨハン)
クラブ史上屈指のレジェンドが、ヨハン・クライフだ。1973~79年に選手として、89~95年に監督して数多くのタイトルに貢献。アヤックスに習ったラ・マシア創設を提唱したのも、このオランダ人だった。95年に健康上の理由から第一線を退いた後も、非公式ながらバルサのアドバイザー的な立場におり、ジョアン・ラポルタの会長時代は、フランク・ライカールトとグアルディオラの監督就任を後押した。2010年4月にバルサの名誉会長に就任したが、敵対するサンドロ・ロセイの会長就任によりわずか3か月でそれを返上。その後もバルサのご意見番として人気を集めるが、現在は肺癌を患い闘病生活を送っている。