中学までは無名の存在。桐光学園に進んだワケと高校サッカーへの憧れ
2020年に開催される東京五輪。活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る新連載だ。
記念すべき1回目は、世代きっての点取り屋・小川航基が登場。桐光学園高ではキャプテンとしてチームを牽引し、16年に磐田でプロキャリアをスタートさせたFWは、17年のU-20ワールドカップで負った左膝の大怪我を乗り越え、昨季はJ1初ゴールを挙げた。
徐々にクラブでも存在感を高めている21歳のストライカーはいかにして現在地へと辿り着いたのか――。前編では幼少期の話から無名だった中学時代のエピソード。そして、桐光学園時代に初めて代表へ招集されるまでの歩みを振り返る。
───◆───◆───
――サッカーを始めたきっかけは?
「きっかけは3つ上の兄が地元のクラブチームでサッカーをやっていたからです。自分は年中だったと思うのですが、兄の姿を見て自分もやりたいと思ったのを覚えていますね」
――ただ、小学校の時は県選抜などと無縁で、注目される機会はあまりなかったとか?
「全然入らなかったですね。市のトレセン(編集部・注/各地域の選抜チームなど)も選ばれなかったですし。小学校卒業後にどこでプレーするかを考えた時に、『みんなで行こう』と話していた強豪のクラブチームがあったので5、6人ぐらいのチームメイトでテストを受けたんです。その時、僕は中盤で受験したのですが、4次試験ぐらいまであるなかで僕だけ1次試験で落とされました。今思えば、小学校の時は挫折ばっかりでしたね」
――中学校時代はチームで手応えを得ていましたが、トレセンなどはどうだったのでしょうか?
「引っ掛からなかったですね。トレセンの選考会にも呼ばれないような状態だったので。(選ばれなかった理由は自身の)レベルが単純に高くなかったからだと思います。そこから、『自分はまだまだだな』と感じながらサッカーに取り組んでいましたね」
――まったく実績がなかった状況で高校進学時に桐光学園から声が掛かりました。
「まさか桐光さんから声が掛かるとは思っていなかった。高校は勉強をして受験するイメージでいたので、話をもらった時は『すぐに行きます』と返事をしました」
――Jクラブの下部組織に行く選択肢はなかったのでしょうか?
「正直、ユースよりも高校サッカーをやりたかった。やっぱり、選手権は小さい頃から見ていて、中学生の時も現地で観戦していたので自分にとっては憧れの舞台。(2013年度まで決勝を開催していた)国立競技場にも足を運びましたし、僕もここでやりたいなと思ってピッチを眺めていたのを覚えています」
記念すべき1回目は、世代きっての点取り屋・小川航基が登場。桐光学園高ではキャプテンとしてチームを牽引し、16年に磐田でプロキャリアをスタートさせたFWは、17年のU-20ワールドカップで負った左膝の大怪我を乗り越え、昨季はJ1初ゴールを挙げた。
徐々にクラブでも存在感を高めている21歳のストライカーはいかにして現在地へと辿り着いたのか――。前編では幼少期の話から無名だった中学時代のエピソード。そして、桐光学園時代に初めて代表へ招集されるまでの歩みを振り返る。
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――サッカーを始めたきっかけは?
「きっかけは3つ上の兄が地元のクラブチームでサッカーをやっていたからです。自分は年中だったと思うのですが、兄の姿を見て自分もやりたいと思ったのを覚えていますね」
――ただ、小学校の時は県選抜などと無縁で、注目される機会はあまりなかったとか?
「全然入らなかったですね。市のトレセン(編集部・注/各地域の選抜チームなど)も選ばれなかったですし。小学校卒業後にどこでプレーするかを考えた時に、『みんなで行こう』と話していた強豪のクラブチームがあったので5、6人ぐらいのチームメイトでテストを受けたんです。その時、僕は中盤で受験したのですが、4次試験ぐらいまであるなかで僕だけ1次試験で落とされました。今思えば、小学校の時は挫折ばっかりでしたね」
――中学校時代はチームで手応えを得ていましたが、トレセンなどはどうだったのでしょうか?
「引っ掛からなかったですね。トレセンの選考会にも呼ばれないような状態だったので。(選ばれなかった理由は自身の)レベルが単純に高くなかったからだと思います。そこから、『自分はまだまだだな』と感じながらサッカーに取り組んでいましたね」
――まったく実績がなかった状況で高校進学時に桐光学園から声が掛かりました。
「まさか桐光さんから声が掛かるとは思っていなかった。高校は勉強をして受験するイメージでいたので、話をもらった時は『すぐに行きます』と返事をしました」
――Jクラブの下部組織に行く選択肢はなかったのでしょうか?
「正直、ユースよりも高校サッカーをやりたかった。やっぱり、選手権は小さい頃から見ていて、中学生の時も現地で観戦していたので自分にとっては憧れの舞台。(2013年度まで決勝を開催していた)国立競技場にも足を運びましたし、僕もここでやりたいなと思ってピッチを眺めていたのを覚えています」