ドイツ史上最高のDFはなぜその時、ゴール前にいたか――。

W杯史上最高とされる伝説の戦いを生み出すことになる、殊勲の一撃だった。シュネリンガーは左端。 (C) Getty Images

ミランでは全てのタイトルを制覇。この後、母国で現役生活を終えるも、引退後は再びイタリアで活動し続けた。 (C) Getty Images
◇カール=ハインツ・シュネリンガー:1939年3月31日生まれ ドイツ・デューレン生まれ
1970年6月、メキシコシティ。イタリアと西ドイツ(当時)のワールドカップ準決勝は、序盤にロベルト・ボニンセーニャのゴールで先制した前者がリードを守り切って決勝戦へのチケットを手に入れると思われていた。
しかし、時計が90分を回った時、西ドイツが追いついた。ユルゲン・グラボウスキーが強引に上げた左からのクロスを、走り込みながら丁寧なボレーで合わせたのは、DFのカール=ハインツ・シュネリンガーだった。
DFの彼が相手ゴール前にいたことについて、イタリア人は「もう負けたと思ってロッカールームに引き揚げている途中だったのだろう。ゴールは偶然のこと」と切り捨てたものだが、この一撃は、歴史に残る激戦を生み出したという意味でも、大きな価値を持つことになる。
延長戦では、94分にゲルト・ミュラーが相手DFのボールをかっさらってゴールを決めて西ドイツが勝ち越すも、イタリアは4分後にセットプレーからDFタルチジオ・ブルニチが詰めて追いつく。
さらに104分には、ルイジ・リーバが巧みなボールコントロールによるシュートを見せ、イタリアは勝ち越しに成功。しかし、粘る西ドイツは6分後、ミュラーが再び泥臭く決めて同点とした。
ここで少し安心した西ドイツ。それを見逃さなかったイタリアは、キックオフから速攻を仕掛け、ジャンニ・リベラが左からのクロスを押し込んだ。隙を突かれたかたちの西ドイツには、もう反撃する気力も体力も残っていなかった。
標高2000メートルを超える高地で繰り広げられた120分間の激闘。後半に肩を脱臼しながらも固定してピッチに立ち続けたフランツ・ベッケンバウアーをはじめ、誰もが全ての力を出し切った究極の一戦は、観る者にすら大きな疲労感を与えた。
この伝説を創成するきっかけを生み出したシュネリンガー。実はこの当時、彼はイタリアのミランに在籍する選手だった。地元クラブとケルンで7シーズンを過ごした後、セリエAに参戦し、マントバ、ローマを経て、「ロッソネロ」の一員となっていた。
ミランでは、スクデット、コッパ・イタリア、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)、インターコンチネンタル・カップ、カップウィナーズ・カップと、全てのタイトル制覇に大貢献し、今なお同クラブの伝説の存在としてファンの尊敬を集めている。
ケルンでリーグ王者に輝いた後に出場した62年チリW杯では、チームは準々決勝で敗退したものの、シュネリンガーは大会ベストイレブンに選出されるほどの活躍ぶりを披露。現在でも、ドイツ史上最高のDFのひとりに挙げられる偉大な選手である。
守備ならサイド、中央のどこでもプレーでき、リベロとしても優れていた彼は、しばしば貴重なゴールも奪っていたが、その重要性ではあのメキシコシティの一撃(代表で唯一のゴール)に勝るものはなかった。
ひとつのゴールが生み出した伝説――。ちなみに、過去の大舞台における終了間際の同点弾で思い出されるのは、ワールドカップでは何より、94年アメリカ大会の決勝トーナメント1回戦、ナイジェリアに先制され敗色濃厚だったイタリアを、88分に救ったロベルト・バッジョの一撃だ(その後、イタリアは延長戦で勝利)。
欧州選手権では、76年大会の決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦で後者のベルント・ヘルツェンバインが89分に決めて延長戦、そしてPK戦に突入した(敗北)。しかしそれ以上にドラマチックだったのが2000年だ。
決勝戦、イタリアが1点をリードして後半アディショナルタイムに突入したが、フランスはここでシルバン・ウィルトールが決めて追いつき、力尽きたイタリアを延長戦でダビド・トレゼゲのゴールデンゴールが葬った。
1970年6月、メキシコシティ。イタリアと西ドイツ(当時)のワールドカップ準決勝は、序盤にロベルト・ボニンセーニャのゴールで先制した前者がリードを守り切って決勝戦へのチケットを手に入れると思われていた。
しかし、時計が90分を回った時、西ドイツが追いついた。ユルゲン・グラボウスキーが強引に上げた左からのクロスを、走り込みながら丁寧なボレーで合わせたのは、DFのカール=ハインツ・シュネリンガーだった。
DFの彼が相手ゴール前にいたことについて、イタリア人は「もう負けたと思ってロッカールームに引き揚げている途中だったのだろう。ゴールは偶然のこと」と切り捨てたものだが、この一撃は、歴史に残る激戦を生み出したという意味でも、大きな価値を持つことになる。
延長戦では、94分にゲルト・ミュラーが相手DFのボールをかっさらってゴールを決めて西ドイツが勝ち越すも、イタリアは4分後にセットプレーからDFタルチジオ・ブルニチが詰めて追いつく。
さらに104分には、ルイジ・リーバが巧みなボールコントロールによるシュートを見せ、イタリアは勝ち越しに成功。しかし、粘る西ドイツは6分後、ミュラーが再び泥臭く決めて同点とした。
ここで少し安心した西ドイツ。それを見逃さなかったイタリアは、キックオフから速攻を仕掛け、ジャンニ・リベラが左からのクロスを押し込んだ。隙を突かれたかたちの西ドイツには、もう反撃する気力も体力も残っていなかった。
標高2000メートルを超える高地で繰り広げられた120分間の激闘。後半に肩を脱臼しながらも固定してピッチに立ち続けたフランツ・ベッケンバウアーをはじめ、誰もが全ての力を出し切った究極の一戦は、観る者にすら大きな疲労感を与えた。
この伝説を創成するきっかけを生み出したシュネリンガー。実はこの当時、彼はイタリアのミランに在籍する選手だった。地元クラブとケルンで7シーズンを過ごした後、セリエAに参戦し、マントバ、ローマを経て、「ロッソネロ」の一員となっていた。
ミランでは、スクデット、コッパ・イタリア、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)、インターコンチネンタル・カップ、カップウィナーズ・カップと、全てのタイトル制覇に大貢献し、今なお同クラブの伝説の存在としてファンの尊敬を集めている。
ケルンでリーグ王者に輝いた後に出場した62年チリW杯では、チームは準々決勝で敗退したものの、シュネリンガーは大会ベストイレブンに選出されるほどの活躍ぶりを披露。現在でも、ドイツ史上最高のDFのひとりに挙げられる偉大な選手である。
守備ならサイド、中央のどこでもプレーでき、リベロとしても優れていた彼は、しばしば貴重なゴールも奪っていたが、その重要性ではあのメキシコシティの一撃(代表で唯一のゴール)に勝るものはなかった。
ひとつのゴールが生み出した伝説――。ちなみに、過去の大舞台における終了間際の同点弾で思い出されるのは、ワールドカップでは何より、94年アメリカ大会の決勝トーナメント1回戦、ナイジェリアに先制され敗色濃厚だったイタリアを、88分に救ったロベルト・バッジョの一撃だ(その後、イタリアは延長戦で勝利)。
欧州選手権では、76年大会の決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦で後者のベルント・ヘルツェンバインが89分に決めて延長戦、そしてPK戦に突入した(敗北)。しかしそれ以上にドラマチックだったのが2000年だ。
決勝戦、イタリアが1点をリードして後半アディショナルタイムに突入したが、フランスはここでシルバン・ウィルトールが決めて追いつき、力尽きたイタリアを延長戦でダビド・トレゼゲのゴールデンゴールが葬った。