なんでも僕の物差しで測っていたら、うまくいかないなって
――そこまでの考えているのは昔から?
「海外でプレーしてからです。日本ではできない経験をたくさんして、考えも変わりました。昔は妥協なんて一切できなかったですし」
――というと?
「これまでは、自分にも、チームメイトにも、クラブにも『できるでしょ? なんでやらないの?』って考えていたんです。でも、オーストリアやポルトガルでプレーし、考えはガラっと変わりました。例えば、Jリーグでのアウェー前日はホテルに泊まって、いい準備してゲームに臨むのが当たり前。でもホルンでは試合当日に4時間もバスに乗って移動するとかが普通でした。仕方ないって言葉は好きじゃないですけど、泊まるお金がなければ、どうしようもないでしょ?」
――確かにそれは仕方がないことですね。そこで妥協できなかった性格が変わったと?
「そうですね。選手個々に対しても『優勝したいならもっとやらなきゃいけないよね?』って思っていた部分はありました。でも、それぞれのバックボーンやサッカーに対する考えがあって、そこも含めてのチーム。なんでも僕の物差しで測っていたら、それはうまくいかないなって」
――Jリーグとかけ離れた環境がその考えを芽生えさせたのでしょうね。
「ホルンは給料が良いほうではなく、練習場の裏にある病院でバイトしている選手もいました。練習が終わったらシャワーも浴びずにすぐに働きに行ったり、練習前も『今オペの看護師やってきたんだよ』って疲れていたり。その選手に『もっと練習しろよ』って言っても不可能。だって家族を支える必要があるんだから」
「海外でプレーしてからです。日本ではできない経験をたくさんして、考えも変わりました。昔は妥協なんて一切できなかったですし」
――というと?
「これまでは、自分にも、チームメイトにも、クラブにも『できるでしょ? なんでやらないの?』って考えていたんです。でも、オーストリアやポルトガルでプレーし、考えはガラっと変わりました。例えば、Jリーグでのアウェー前日はホテルに泊まって、いい準備してゲームに臨むのが当たり前。でもホルンでは試合当日に4時間もバスに乗って移動するとかが普通でした。仕方ないって言葉は好きじゃないですけど、泊まるお金がなければ、どうしようもないでしょ?」
――確かにそれは仕方がないことですね。そこで妥協できなかった性格が変わったと?
「そうですね。選手個々に対しても『優勝したいならもっとやらなきゃいけないよね?』って思っていた部分はありました。でも、それぞれのバックボーンやサッカーに対する考えがあって、そこも含めてのチーム。なんでも僕の物差しで測っていたら、それはうまくいかないなって」
――Jリーグとかけ離れた環境がその考えを芽生えさせたのでしょうね。
「ホルンは給料が良いほうではなく、練習場の裏にある病院でバイトしている選手もいました。練習が終わったらシャワーも浴びずにすぐに働きに行ったり、練習前も『今オペの看護師やってきたんだよ』って疲れていたり。その選手に『もっと練習しろよ』って言っても不可能。だって家族を支える必要があるんだから」
――ここまで話を訊いていると、海外で様々な考えに触れて視野が広がり、変に肩の力が入っていない印象です。
「ある意味、しがらみから解放されて考えが柔軟になった感じですかね。極論ですが、別にチームメイトが煙草を吸っていたり、二日酔いで練習に来ても、『ピッチでしっかりやればいいんじゃない?』って思える。昔は考えが凝り固まっていたのかもしれない。もちろん、試合中は相当要求しますよ。それがサッカー選手としての仕事なので。もちろん、ピッチでいいパフォーマンスできなかったら論外です」
――“肩の荷が下りた”権田選手に期待しています‼ 最後になりますが、今季の意気込みは?
「結局は『僕が全部止めればいいんでしょ』って思っていますけど、そしたらチームメイトは『シュートは打たせてもOK』ってなるじゃなでいですか? それだと僕が調子落としたり、怪我したりしてチームが勝てなくなったら意味がない。僕もA代表は常に目標にありますが、チームの成績が良くないと呼ばれるわけがない。チームの成績を上げるのは絶対に大事ですし、それを個人の評価につなげたいと思います‼」
■プロフィール
権田修一(ごんだ・しゅういち)/1989年3月3日生まれ、東京都出身。187センチ・84キロ。さぎぬまSC―FC東京U-15―FC東京U-18―FC東京―ホルン(AUT)―鳥栖―ポルティモネンセ(POR)―清水。J1通算252試合・0得点、J2通算20試合・0得点、日本代表通算18試合・0得点、オーストリア2部通算15試合・0得点、オーストリア3部通算2試合・0得点、ポルトガル1部通算15試合・0得点(3月8日時点)。安定したセービングが魅力のGK。U-14世代からコンスタントに日本代表に名を連ね、12年のロンドン五輪ではベスト4進出に貢献。新天地を清水に決めたのはFC東京時代に指導を受けた、大熊GM(当時監督)の存在が大きな理由だという。
取材・文●古沢侑大(サッカーダイジェスト編集部)
※『サッカーダイジェスト』2月25日・3月11日合併号(2月11日発売)より一部修正して転載。