いま思えば、トルシエの練習はホンマに面白くなかった(笑)。
突如として目の前に現われた、異星人のごときフランス人。黄金世代の誰もが強烈なファーストインパクトを感じたが、稲本はさほどでもなかったと振り返る。言うなれば、免疫があったのだ。
「アントネッティもたいがいやったからね」
フレデリック・アントネッティだ。98年の夏から丸1年、ガンバ大阪で指揮を執ったフランス人指揮官である。アップ時を含めたすべての練習でボールを使い、洗練された最先端の戦術とメソッドを導入。指示は異常なほど細かく、動きが緩慢な選手には容赦なく罵声を浴びせた。ただ、稲本や宮本を筆頭に若手が中心だった当時のガンバとは、かならずしも相性が良くなかった。来るのが「少し早かった」のだ。
その後にフランス国内で高めた声価を考えれば、アーセン・ヴェンゲルやルイス・フェリペ・スコラーリほどではないにせよ、Jリーグで指揮を執った世界的智将と言える。稲本も小さくない影響を受けた人物だ。
「トルシエはもちろん、アントネッティよりうるさいんですけど、フランス人はみんなそんな感じなんやろうと思ってたから、すぐ受け入れられた。指示が細かいところとかを含めて、僕としてはイメージ通りというか、あんまり違和感がなかったですね。いま思えば、あの練習はホンマに面白くなかった(笑)。延々と同じことを繰り返してましたからね。ただ、あの頃の僕らには必要だったのかもしれない」
ナイジェリアでの躍進を期して、生まれ変わるU-20日本代表。ブルキナファソ遠征ではフラット3を軸とする斬新な戦術を身体に叩き込まれ、異国の地でさまざまな体験をすることで、チームの団結力も高まった。稲本はトルシエ監督の厚い信頼を受け、副キャプテンに指名されている。
ところが、確かな手応えを経て帰国した稲本を悲運が襲う。
Jリーグで膝の靭帯を損傷。世界大会は1か月後に迫っていた。
<♯3に続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※8月30日掲載予定の次回は、いよいよナイジェリア・ワールドユースでの核心に迫ります。怪我を抱えて乗り込んだ決戦の地で、稀代のボランチはなにを想い、ファイナルまでの日々をどう戦い抜いたのか。そして膨らんだ欧州挑戦への渇望──。こうご期待!
───◆───◆───
PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181㌢・77㌔。O型。データはすべて2017年8月23日現在。
「アントネッティもたいがいやったからね」
フレデリック・アントネッティだ。98年の夏から丸1年、ガンバ大阪で指揮を執ったフランス人指揮官である。アップ時を含めたすべての練習でボールを使い、洗練された最先端の戦術とメソッドを導入。指示は異常なほど細かく、動きが緩慢な選手には容赦なく罵声を浴びせた。ただ、稲本や宮本を筆頭に若手が中心だった当時のガンバとは、かならずしも相性が良くなかった。来るのが「少し早かった」のだ。
その後にフランス国内で高めた声価を考えれば、アーセン・ヴェンゲルやルイス・フェリペ・スコラーリほどではないにせよ、Jリーグで指揮を執った世界的智将と言える。稲本も小さくない影響を受けた人物だ。
「トルシエはもちろん、アントネッティよりうるさいんですけど、フランス人はみんなそんな感じなんやろうと思ってたから、すぐ受け入れられた。指示が細かいところとかを含めて、僕としてはイメージ通りというか、あんまり違和感がなかったですね。いま思えば、あの練習はホンマに面白くなかった(笑)。延々と同じことを繰り返してましたからね。ただ、あの頃の僕らには必要だったのかもしれない」
ナイジェリアでの躍進を期して、生まれ変わるU-20日本代表。ブルキナファソ遠征ではフラット3を軸とする斬新な戦術を身体に叩き込まれ、異国の地でさまざまな体験をすることで、チームの団結力も高まった。稲本はトルシエ監督の厚い信頼を受け、副キャプテンに指名されている。
ところが、確かな手応えを経て帰国した稲本を悲運が襲う。
Jリーグで膝の靭帯を損傷。世界大会は1か月後に迫っていた。
<♯3に続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※8月30日掲載予定の次回は、いよいよナイジェリア・ワールドユースでの核心に迫ります。怪我を抱えて乗り込んだ決戦の地で、稀代のボランチはなにを想い、ファイナルまでの日々をどう戦い抜いたのか。そして膨らんだ欧州挑戦への渇望──。こうご期待!
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PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181㌢・77㌔。O型。データはすべて2017年8月23日現在。