いやもう、この世のものとは思えんくらい強烈すぎて。
U-17日本代表での熾烈なポジション争い。ガンバジュニアユースで攻撃的な位置からボランチにコンバートされ、新境地を開拓していた稲本だが、このチームでは主に右のサイドバック、あるいはウイングバックでの出場が続いた。
「アジアユースの時は4-4-2の右サイドバックで、エクアドル(U-17世界選手権)では3-5-2の右ウイングバックでしたね。中盤は層が厚かったし、ボランチは小林久晃くんとかがレギュラーやったんで。高原も左のハーフでプレーしてましたよ」
チームは94年、U-16アジアユースを初制覇。余勢を駆って翌年、U-17世界選手権の開催地・エクアドルに乗り込んだ。グループリーグで1勝1分け1敗の勝点4を獲得したが、得失点差でわずか1ポイント及ばず、決勝トーナメント進出はならなかった。
稲本は0-1で敗れた初戦の相手、ガーナが衝撃的だったと回顧する。スティーブン・アッピアーらを擁し、最終的に大会を制して世界チャンピオンとなるチームだ。
「いやもう、この世のものとは思えんくらい強烈すぎて。スピードであったり身体能力であったり、世界にはすごい連中がおるんやなと体感した。エクアドルはかなりの高所。事前合宿はペルーでやって、それこそ高所対策とかに取り組んだんですけど、まだ高1やったからなにもかもが新鮮で楽しかったのを覚えてる。光太郎くんとか試合中に目を怪我したのに、包帯をぐるぐる巻きにしてプレーしてた。それを見て感じるところは大きかったし、団結力もあって、いいチームでしたよ」
高2になると稲本はガンバユースでも不動の軸となり、トップチームの練習にも参加するようになる。同級生の新井場徹とともにクラブユース界をリードする存在として、育成年代で注目を集めていく。96年秋のナショナルトレセンU-17ではMVPを受賞。やがてトップデビューを果たし、高3になるとJリーグでも活躍し始める。
世代の中では、いわば別格となっていった。
「アジアユースの時は4-4-2の右サイドバックで、エクアドル(U-17世界選手権)では3-5-2の右ウイングバックでしたね。中盤は層が厚かったし、ボランチは小林久晃くんとかがレギュラーやったんで。高原も左のハーフでプレーしてましたよ」
チームは94年、U-16アジアユースを初制覇。余勢を駆って翌年、U-17世界選手権の開催地・エクアドルに乗り込んだ。グループリーグで1勝1分け1敗の勝点4を獲得したが、得失点差でわずか1ポイント及ばず、決勝トーナメント進出はならなかった。
稲本は0-1で敗れた初戦の相手、ガーナが衝撃的だったと回顧する。スティーブン・アッピアーらを擁し、最終的に大会を制して世界チャンピオンとなるチームだ。
「いやもう、この世のものとは思えんくらい強烈すぎて。スピードであったり身体能力であったり、世界にはすごい連中がおるんやなと体感した。エクアドルはかなりの高所。事前合宿はペルーでやって、それこそ高所対策とかに取り組んだんですけど、まだ高1やったからなにもかもが新鮮で楽しかったのを覚えてる。光太郎くんとか試合中に目を怪我したのに、包帯をぐるぐる巻きにしてプレーしてた。それを見て感じるところは大きかったし、団結力もあって、いいチームでしたよ」
高2になると稲本はガンバユースでも不動の軸となり、トップチームの練習にも参加するようになる。同級生の新井場徹とともにクラブユース界をリードする存在として、育成年代で注目を集めていく。96年秋のナショナルトレセンU-17ではMVPを受賞。やがてトップデビューを果たし、高3になるとJリーグでも活躍し始める。
世代の中では、いわば別格となっていった。