(コロコロPKより)もっと確実なのを見つけたから。
遠藤保仁の名を日本国内だけでなく世界的に知らしめたのが、特異なPK技術、いわゆる「コロコロPK」である。
相手GKの動きをぎりぎりまで見定め、ものの見事に逆を突き、低速のゴロシュートで流し込む──。日本代表の海外遠征でも披露し、世界中で話題になった。
大昔の1986年、メキシコ・ワールドカップでデンマーク代表のMFイェスパー・オルセンが似たようなPKを蹴っていた。「こんなの見たことない!」と興奮したものだが、あらためて当時の映像を見てみると、遠藤のコロコロよりうんと高速だった。
誰の真似もしていないと、ヤットが誕生秘話を明かす。
「なーんも参考にはしてない。まったく。完全な思い付きよ。きっかけは普通の練習だったかな。キーパーの体重のかかったほうにボールを蹴ったら、まず足は出ないでしょ? それの逆やん、どんだけコースが甘くても、動いたほうと逆に蹴ったら入るやんと。ほぼほぼ外さんかったね」
ところがある日を境に、パタッと蹴らなくなった。成功率が下がったわけでもなく、世間が騒ぎすぎたからでもない。
「なんかね、途中で飽きた(笑)。というより、もっと確実なのを見つけたから。キーパーの手が届かないサイドネットにスピードのあるボールを蹴れば、たいがい止められへんという境地に至った。もうそうなるとキーパー云々じゃないよ。どう動こうが関係ない。ズドンと行けばいいだけやから。最近は基本的にずっとそれ。そこに蹴れる技術と自信がないと、できないけどね」
(♯4につづく)
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※6月4日配信予定の最終回は、152キャップの金字塔を打ち立てた日本代表での「栄光と挫折」を追います。さらには海外挑戦への想い、引退や近未来へのビジョンなどなど。こうご期待!
―――――――――――◆―――――――――◆――――――――――――
PROFILE
えんどう・やすひと/1980年1月28日生まれ、鹿児島県桜島町出身。桜州小、桜島中と地元チームでサッカーに親しみ、高校は名門・鹿児島実に進学。1年時から試合に出場し、中盤の要として奮闘した。1998年、横浜Fに鳴り物入りで入団するも、クラブは1年で消滅。翌年のワールドユースでは1ボランチでレギュラーを確保し、銀メダル奪取に寄与した。2001年には2シーズンを過ごした京都からG大阪へ移籍。以後、16シーズンに渡って浪速の雄の主軸として活躍し、2度のJ1リーグ優勝やアジア制覇など9つのタイトルを獲得した。02年のAマッチデビューから、日本代表での実働期はおよそ13年に及んだ。歴代最多152試合出場(15得点)は簡単には破られない大記録だ。ワールドカップには06年、10年、14年大会と3大会連続で出場した。Jリーグ・ベスト11は12回受賞(歴代最多)。09年アジア年間最優秀選手、14年JリーグMVP。Jリーグ通算/581試合・105得点(うちJ1は548試合・100得点)。178㌢・75㌔。AB型。データはすべて2017年5月29日現在。
相手GKの動きをぎりぎりまで見定め、ものの見事に逆を突き、低速のゴロシュートで流し込む──。日本代表の海外遠征でも披露し、世界中で話題になった。
大昔の1986年、メキシコ・ワールドカップでデンマーク代表のMFイェスパー・オルセンが似たようなPKを蹴っていた。「こんなの見たことない!」と興奮したものだが、あらためて当時の映像を見てみると、遠藤のコロコロよりうんと高速だった。
誰の真似もしていないと、ヤットが誕生秘話を明かす。
「なーんも参考にはしてない。まったく。完全な思い付きよ。きっかけは普通の練習だったかな。キーパーの体重のかかったほうにボールを蹴ったら、まず足は出ないでしょ? それの逆やん、どんだけコースが甘くても、動いたほうと逆に蹴ったら入るやんと。ほぼほぼ外さんかったね」
ところがある日を境に、パタッと蹴らなくなった。成功率が下がったわけでもなく、世間が騒ぎすぎたからでもない。
「なんかね、途中で飽きた(笑)。というより、もっと確実なのを見つけたから。キーパーの手が届かないサイドネットにスピードのあるボールを蹴れば、たいがい止められへんという境地に至った。もうそうなるとキーパー云々じゃないよ。どう動こうが関係ない。ズドンと行けばいいだけやから。最近は基本的にずっとそれ。そこに蹴れる技術と自信がないと、できないけどね」
(♯4につづく)
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※6月4日配信予定の最終回は、152キャップの金字塔を打ち立てた日本代表での「栄光と挫折」を追います。さらには海外挑戦への想い、引退や近未来へのビジョンなどなど。こうご期待!
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PROFILE
えんどう・やすひと/1980年1月28日生まれ、鹿児島県桜島町出身。桜州小、桜島中と地元チームでサッカーに親しみ、高校は名門・鹿児島実に進学。1年時から試合に出場し、中盤の要として奮闘した。1998年、横浜Fに鳴り物入りで入団するも、クラブは1年で消滅。翌年のワールドユースでは1ボランチでレギュラーを確保し、銀メダル奪取に寄与した。2001年には2シーズンを過ごした京都からG大阪へ移籍。以後、16シーズンに渡って浪速の雄の主軸として活躍し、2度のJ1リーグ優勝やアジア制覇など9つのタイトルを獲得した。02年のAマッチデビューから、日本代表での実働期はおよそ13年に及んだ。歴代最多152試合出場(15得点)は簡単には破られない大記録だ。ワールドカップには06年、10年、14年大会と3大会連続で出場した。Jリーグ・ベスト11は12回受賞(歴代最多)。09年アジア年間最優秀選手、14年JリーグMVP。Jリーグ通算/581試合・105得点(うちJ1は548試合・100得点)。178㌢・75㌔。AB型。データはすべて2017年5月29日現在。