G大阪アカデミーは最高の環境だった
「こんなに凄い選手がおるんか」
10年3月、山下令雄(現・FC琉球)はテレビの前で度肝を抜かれた。画面にはフジパンカップの決勝で鮮烈な活躍をして優勝カップを高々と突き上げる同い年の少年が映っていた。
「初めて観た時は衝撃でしたね。それから小6の時には関西トレセンで初めて一緒にプレーして、改めて上手いなって。でも、まさか中学から同じチームになるなんて」
関西で一目置かれていた堂安の下には、中学に上がる際に様々なクラブからオファーが届く。ガンバ大阪、名古屋グランパス、セレッソ大阪、JFAアカデミー福島……。そのなかから堂安はG大阪ジュニアユースを選んだ。山下や西田らも入団を決めたそのアカデミーは、家長昭博(現・川崎)、宇佐美貴史(現G大阪)を輩出した、言わずと知れた全国でも指折りの育成機関である。
当時ジュニアユースを率いていた鴨川幸司(現FCティアモ枚方コーチ)は数々の逸材を育成し、肥えた目を持っていた。そんな熟練の指導者にとって堂安は当時、圧倒的な素材ではなかった。
「その年代では堂安が一番良いという噂は聞いていました。確かに技術は図抜けていました。でも第一印象は『まあまあだな』というくらい。少しぽっちゃりしていてスピードはそこまでなかった。正直今までいろんな選手を見てきて、消えていった選手もいっぱいいましたからね。その時点でこの子は絶対にプロになるなという確信はなかったです」
10年3月、山下令雄(現・FC琉球)はテレビの前で度肝を抜かれた。画面にはフジパンカップの決勝で鮮烈な活躍をして優勝カップを高々と突き上げる同い年の少年が映っていた。
「初めて観た時は衝撃でしたね。それから小6の時には関西トレセンで初めて一緒にプレーして、改めて上手いなって。でも、まさか中学から同じチームになるなんて」
関西で一目置かれていた堂安の下には、中学に上がる際に様々なクラブからオファーが届く。ガンバ大阪、名古屋グランパス、セレッソ大阪、JFAアカデミー福島……。そのなかから堂安はG大阪ジュニアユースを選んだ。山下や西田らも入団を決めたそのアカデミーは、家長昭博(現・川崎)、宇佐美貴史(現G大阪)を輩出した、言わずと知れた全国でも指折りの育成機関である。
当時ジュニアユースを率いていた鴨川幸司(現FCティアモ枚方コーチ)は数々の逸材を育成し、肥えた目を持っていた。そんな熟練の指導者にとって堂安は当時、圧倒的な素材ではなかった。
「その年代では堂安が一番良いという噂は聞いていました。確かに技術は図抜けていました。でも第一印象は『まあまあだな』というくらい。少しぽっちゃりしていてスピードはそこまでなかった。正直今までいろんな選手を見てきて、消えていった選手もいっぱいいましたからね。その時点でこの子は絶対にプロになるなという確信はなかったです」
また堂安の加入直前までU-13の指導を担当し、ユースでは監督として指導した梅津博徳(現・横浜ジュニアユースコーチ)も、スカウトの際に同様の第一印象を抱いていた。
「小6の頃はまるで指導者みたいなプレーヤーでした。ドリブルもできたはずなのに、中盤の底であまり動かずパスを捌いていた。同年代では抜群に上手かったけど、点をよく決める西田のほうが目立っていましたね」
ところが、そこから堂安はメキメキと力をつけていく。関西全土から有数のタレントが集まるG大阪アカデミーは、負けず嫌いの堂安には最高の環境だったのだ。
鴨川は語る。
「アイツの場合はすごくラッキーでした。レベルの高い先輩のなかで練習していたので、甘えが許されなかった。同学年にも食野(亮太郎/現リオ・アベ)とかガツガツやり合える選手たちがいた。あの学年はとにかく激しかったんです。練習から『おいおい、怪我させるなよ』と僕が止めに入るくらいの雰囲気でした」
ひとつ上の世代は特に強烈だった。市丸瑞希(現・琉球)、髙木彰人(現・群馬)、初瀬亮(現・神戸)、林大地(現・鳥栖)、田中駿汰(現・札幌)らは、12年にU-15年代で3冠(JFAプレミアカップ、全日本クラブユース選手権、高円宮杯全日本ユース選手権)を達成する時の最高学年だったのだ。さらにふたつ上には井手口陽介(現G大阪)、鎌田大地(現フランクフルト)という俊英が揃っていた。そんな環境で堂安は持ち前の負けん気を生かして必死で食らいついた。その姿勢にはさすがの鴨川も感心せざるを得なかった。
「サッカーへの追求心はやっぱり人一倍強かったです。プロになるということに対して迷いがなかったですね。中1の終わりから中2の初めくらいまでドリブルが通用せんくなって、その時は僕も厳しいことを言いましてね。でもアイツは人の話を素直に聞くんですよ。それからドリブルだけじゃなくて、周りを使えるようになったり、相手を外す動きを覚えたり。それでひと皮剥けましたね」
この時期から選ばれるようになったU-16代表では、不慣れなSBで起用されたが、鴨川によれば、何ひとつ文句を洩らさなかったという。
「世代別代表では最初は評価が高くなかったと思うんです。吉武監督(博文/現アローズナガサキゼネラルマネージャー)にサイドバックにさせられて。でも律は『認められるように頑張ります』と言って、高1の時のU-16アジア選手権ではキャプテンを任されるまでになりましたからね。その腐らずにやり続けられるバイタリティこそが律の強みやし、そこはホンマに凄いなと思いましたね」
「小6の頃はまるで指導者みたいなプレーヤーでした。ドリブルもできたはずなのに、中盤の底であまり動かずパスを捌いていた。同年代では抜群に上手かったけど、点をよく決める西田のほうが目立っていましたね」
ところが、そこから堂安はメキメキと力をつけていく。関西全土から有数のタレントが集まるG大阪アカデミーは、負けず嫌いの堂安には最高の環境だったのだ。
鴨川は語る。
「アイツの場合はすごくラッキーでした。レベルの高い先輩のなかで練習していたので、甘えが許されなかった。同学年にも食野(亮太郎/現リオ・アベ)とかガツガツやり合える選手たちがいた。あの学年はとにかく激しかったんです。練習から『おいおい、怪我させるなよ』と僕が止めに入るくらいの雰囲気でした」
ひとつ上の世代は特に強烈だった。市丸瑞希(現・琉球)、髙木彰人(現・群馬)、初瀬亮(現・神戸)、林大地(現・鳥栖)、田中駿汰(現・札幌)らは、12年にU-15年代で3冠(JFAプレミアカップ、全日本クラブユース選手権、高円宮杯全日本ユース選手権)を達成する時の最高学年だったのだ。さらにふたつ上には井手口陽介(現G大阪)、鎌田大地(現フランクフルト)という俊英が揃っていた。そんな環境で堂安は持ち前の負けん気を生かして必死で食らいついた。その姿勢にはさすがの鴨川も感心せざるを得なかった。
「サッカーへの追求心はやっぱり人一倍強かったです。プロになるということに対して迷いがなかったですね。中1の終わりから中2の初めくらいまでドリブルが通用せんくなって、その時は僕も厳しいことを言いましてね。でもアイツは人の話を素直に聞くんですよ。それからドリブルだけじゃなくて、周りを使えるようになったり、相手を外す動きを覚えたり。それでひと皮剥けましたね」
この時期から選ばれるようになったU-16代表では、不慣れなSBで起用されたが、鴨川によれば、何ひとつ文句を洩らさなかったという。
「世代別代表では最初は評価が高くなかったと思うんです。吉武監督(博文/現アローズナガサキゼネラルマネージャー)にサイドバックにさせられて。でも律は『認められるように頑張ります』と言って、高1の時のU-16アジア選手権ではキャプテンを任されるまでになりましたからね。その腐らずにやり続けられるバイタリティこそが律の強みやし、そこはホンマに凄いなと思いましたね」