基本的にはみんなサポートには来ないで、勝負させてくれた
そんなトルシエ監督がユース代表の指揮も執ることが決まり、99年の年明け、西アフリカのブルキナファソに遠征した。この連載に登場してくれた誰もが口を揃える、ド級の異世界がそこにはあった。本山にとっても鮮烈な記憶として刻まれている。
「いやいやもう、語り尽くせないですよ。すんごい覚えてます。自分のサッカー人生だけでなく、普段の生活にも影響を与えたというか、人間として変わった。生きていくうえで大事なことを身をもって学んだというか、なんでも食べれるようになったし、どんな環境でも物怖じしなくなりましたからね。ブルキナを思い出せば、なんだって乗り切れる。日本ではなかなかそんな場所はないけど(笑)」
当時、筆者は彼らに同行取材をし、首都ワガドゥグで同じホテルに宿泊した。普通の設備が整った、スタンダードなホテルだ。小ぎれいなレストランがあって、安価でおいしいフランス料理が食べられたし、部屋には空調もシャワーもちゃんとあって、むしろ快適だった。
だがフランス人の鬼監督はあえて彼らに、サバイバルのような生活をさせた。現地の食料しか口にさせず、空調を止め、シャワーに至ってはろくに水も出ない。すでにプロフットボーラーとなっていた黄金世代に試練を与えたのだ。毎日ランチタイムだけは私も同じ場所で食事をした。いまでも忘れない。コーラを飲んでいた時、遠くから突き刺すような眼差しを向けてきた、ミツオさんのことを。
「食べる、寝るのところにすごく負荷がかかってて、それに対して毎日どうやり過ごして、かつ練習でもアピールしなきゃいけないわけで。ほんの1週間くらいだったと思うけど、本当に鍛えられましたよね。部屋はミツオと同じだった。部屋が暑苦しいのはいいんだけど、蚊とダニがやっぱり大敵で、かゆくてしょうがない。ずっと闘ってましたよ。いやでも強引にでも寝なきゃなと思ってフトンをかぶるんだけどダメで……。そしてふと見たら、ミツオがじっと黙ったまま椅子に座ってました(笑)。あれでチームが結束した、のかもしれない」
そして迎えたナイジェリア・ワールドユース。本山は3-5-2システムの左ウイングバック(ほぼウイング)に配され、躍動した。
トルシエ監督には守備面のことを口酸っぱく言われただけで、攻撃に関してはある程度の自由を与えられたという。そう、またしてもフリーダムのお墨付きをもらったのだ。どんな指揮官も自由と背番号10を与えたくなる、本山雅志とはそんな選手なのだ。
「あのサッカーはあのサッカーで面白かった。トルシエには、ラインがずれるとオフサイドを取れないから、守る時は5バックの感覚で動けとだけ言われてました。あと、大会中はなにがキツイって、フリーキックの壁になる練習がキツかった。要は、よけるな! ってこと。何発も何発も撃ち込まれるから、もうみんな痛いのなんのって」
日本はグループリーグ初戦でカメルーンに逆転負けを喫したものの、続くアメリカ戦、イングランド戦をモノにして決勝トーナメントへ。快進撃は止まらず、ポルトガル、ウルグアイ、メキシコを連破し、あれよあれよでファイナルに到達した。その原動力のひとりとなったのが、本山だ。左サイドで切れ味鋭い仕掛けを連発し、敵ディフェンス網を切り裂いた。地元ナイジェリアのファンからボールを持つたびに大歓声が上がるほど、大の人気者となったのだ。
「なんだろ、あっちのひとってドリブラーが好きだったのかもですね。まあプレーしてて、本当に楽しくてしょうがなかった。なんていうか、僕らの世代の連中って球にメッセージがあるんですよ。それを互いにそこかしこで出し合って、いろんなバリエーションの攻撃ができていたのかなって思います。僕の場合は、試合を重ねるにつれて、みんな寄って来なくなったんですよね。スペースを空けてくれるようになった。シンジからもいつも『預けるから仕掛けろ』って言われてたし、基本的にはみんなサポートには来ないで、勝負させてくれた。かといって手詰まったら、タカとか永井(雄一郎)さんとかがささっと来て顔を出してくれる。そこらへんが絶妙で、上手くハマったんだと思います」
余談だが、トルシエ監督が率いた三世代の日本代表において、そこまで自由気ままな特権を与えられたのは本山のみである。サイドにドリブラーを置くこともあまり好まず、小野伸二や明神智和、中村俊輔らを重用。本山と三都主アレサンドロのふたりだけが、飛び道具として起用された。
「いやいやもう、語り尽くせないですよ。すんごい覚えてます。自分のサッカー人生だけでなく、普段の生活にも影響を与えたというか、人間として変わった。生きていくうえで大事なことを身をもって学んだというか、なんでも食べれるようになったし、どんな環境でも物怖じしなくなりましたからね。ブルキナを思い出せば、なんだって乗り切れる。日本ではなかなかそんな場所はないけど(笑)」
当時、筆者は彼らに同行取材をし、首都ワガドゥグで同じホテルに宿泊した。普通の設備が整った、スタンダードなホテルだ。小ぎれいなレストランがあって、安価でおいしいフランス料理が食べられたし、部屋には空調もシャワーもちゃんとあって、むしろ快適だった。
だがフランス人の鬼監督はあえて彼らに、サバイバルのような生活をさせた。現地の食料しか口にさせず、空調を止め、シャワーに至ってはろくに水も出ない。すでにプロフットボーラーとなっていた黄金世代に試練を与えたのだ。毎日ランチタイムだけは私も同じ場所で食事をした。いまでも忘れない。コーラを飲んでいた時、遠くから突き刺すような眼差しを向けてきた、ミツオさんのことを。
「食べる、寝るのところにすごく負荷がかかってて、それに対して毎日どうやり過ごして、かつ練習でもアピールしなきゃいけないわけで。ほんの1週間くらいだったと思うけど、本当に鍛えられましたよね。部屋はミツオと同じだった。部屋が暑苦しいのはいいんだけど、蚊とダニがやっぱり大敵で、かゆくてしょうがない。ずっと闘ってましたよ。いやでも強引にでも寝なきゃなと思ってフトンをかぶるんだけどダメで……。そしてふと見たら、ミツオがじっと黙ったまま椅子に座ってました(笑)。あれでチームが結束した、のかもしれない」
そして迎えたナイジェリア・ワールドユース。本山は3-5-2システムの左ウイングバック(ほぼウイング)に配され、躍動した。
トルシエ監督には守備面のことを口酸っぱく言われただけで、攻撃に関してはある程度の自由を与えられたという。そう、またしてもフリーダムのお墨付きをもらったのだ。どんな指揮官も自由と背番号10を与えたくなる、本山雅志とはそんな選手なのだ。
「あのサッカーはあのサッカーで面白かった。トルシエには、ラインがずれるとオフサイドを取れないから、守る時は5バックの感覚で動けとだけ言われてました。あと、大会中はなにがキツイって、フリーキックの壁になる練習がキツかった。要は、よけるな! ってこと。何発も何発も撃ち込まれるから、もうみんな痛いのなんのって」
日本はグループリーグ初戦でカメルーンに逆転負けを喫したものの、続くアメリカ戦、イングランド戦をモノにして決勝トーナメントへ。快進撃は止まらず、ポルトガル、ウルグアイ、メキシコを連破し、あれよあれよでファイナルに到達した。その原動力のひとりとなったのが、本山だ。左サイドで切れ味鋭い仕掛けを連発し、敵ディフェンス網を切り裂いた。地元ナイジェリアのファンからボールを持つたびに大歓声が上がるほど、大の人気者となったのだ。
「なんだろ、あっちのひとってドリブラーが好きだったのかもですね。まあプレーしてて、本当に楽しくてしょうがなかった。なんていうか、僕らの世代の連中って球にメッセージがあるんですよ。それを互いにそこかしこで出し合って、いろんなバリエーションの攻撃ができていたのかなって思います。僕の場合は、試合を重ねるにつれて、みんな寄って来なくなったんですよね。スペースを空けてくれるようになった。シンジからもいつも『預けるから仕掛けろ』って言われてたし、基本的にはみんなサポートには来ないで、勝負させてくれた。かといって手詰まったら、タカとか永井(雄一郎)さんとかがささっと来て顔を出してくれる。そこらへんが絶妙で、上手くハマったんだと思います」
余談だが、トルシエ監督が率いた三世代の日本代表において、そこまで自由気ままな特権を与えられたのは本山のみである。サイドにドリブラーを置くこともあまり好まず、小野伸二や明神智和、中村俊輔らを重用。本山と三都主アレサンドロのふたりだけが、飛び道具として起用された。