「4年後に必ずエスパルスに戻ると覚悟を決めました」
清水ユースでは1年時から出番を掴み、2年時は主軸としてプレミアリーグEASTで躍動するなど、順風満帆なサッカー人生を歩み始めた。当時、ユースの監督であった平岡宏章監督からも全幅の信頼を寄せられ、3年時にはエースでキャプテンとなった。
しかし、高3になってからは前述した通り、徐々に厳しい現実が重くのし掛かった。
「クラブユース選手権の前に関係者から『トップ昇格は厳しいかもしれないから、大学や他を探したほうがいい』と言われたんです。でもまだはっきりと『上がれない』と言われたわけではなかったので、『ユースで結果を出そう』と思っていました。
実はクラブユース選手権の前に痛みがあって、MRIを撮ったら第5中足骨にヒビが入っていたんです。この箇所は完全に折れないと手術ができないので、『昇格に向けて折れるまで死に物狂いでやろう』と覚悟を決めて臨んだんです。
それで優勝してから『まだチャンスがあるぞ』と言われて、最終セレクションとなる1週間の練習参加が決まったのですが、優勝してからSBSカップ、プレミアリーグと連戦が続いて、オフがほぼない疲労困憊の状態で練習参加することになったんです。なんとか持ってほしかったのですが、初日の紅白戦で踏ん張った瞬間に……」
自分でも折れたことがはっきりと分かった。“トップ昇格の夢”も折れてしまった音に聞こえた。
「あと数日だけでも持ってくれたら……」
思いは届かず。大学進学を決めた齊藤を、熱心に誘ってくれたのが明治大と流通経済大だった。経済面などいろいろ含めて考えた結果、流通経済大に進んだ。
しかし、高3になってからは前述した通り、徐々に厳しい現実が重くのし掛かった。
「クラブユース選手権の前に関係者から『トップ昇格は厳しいかもしれないから、大学や他を探したほうがいい』と言われたんです。でもまだはっきりと『上がれない』と言われたわけではなかったので、『ユースで結果を出そう』と思っていました。
実はクラブユース選手権の前に痛みがあって、MRIを撮ったら第5中足骨にヒビが入っていたんです。この箇所は完全に折れないと手術ができないので、『昇格に向けて折れるまで死に物狂いでやろう』と覚悟を決めて臨んだんです。
それで優勝してから『まだチャンスがあるぞ』と言われて、最終セレクションとなる1週間の練習参加が決まったのですが、優勝してからSBSカップ、プレミアリーグと連戦が続いて、オフがほぼない疲労困憊の状態で練習参加することになったんです。なんとか持ってほしかったのですが、初日の紅白戦で踏ん張った瞬間に……」
自分でも折れたことがはっきりと分かった。“トップ昇格の夢”も折れてしまった音に聞こえた。
「あと数日だけでも持ってくれたら……」
思いは届かず。大学進学を決めた齊藤を、熱心に誘ってくれたのが明治大と流通経済大だった。経済面などいろいろ含めて考えた結果、流通経済大に進んだ。
「自分のことを最後まで思ってくれた栗田さんや、同じように熱心に誘ってくれた流通経済大のためにも、4年後に必ずエスパルスに戻ると覚悟を決めました」
流通経済大では1年から出番を掴むことができた。2年時には曹貴裁コーチ(現・京都監督)も加わり、「高校までの僕に決定的に足りなかったハングリー精神やチームのために戦うという精神を植え付けてもらった」と語るように、多くの経験と思考を大学生活を通じて身につけた。
さらに1年時からずっと兵働昭弘スカウトとコミュニケーションが取れていたことも大きかった。兵働スカウトは齊藤が第5中足骨を負傷した時、紅白戦の味方としてピッチに立っていた。
「多分、僕がラストチャンスだったことも知っていて、紅白戦が終わった後も『俺が上の人に言っておくよ』と言ってくれたんです。もともと僕を気にかけて話しかけてくれる偉大な先輩選手だったので、僕が卒業して1年目にスカウトになったと聞いた時は、運命だと思いました」
流通経済大では1年から出番を掴むことができた。2年時には曹貴裁コーチ(現・京都監督)も加わり、「高校までの僕に決定的に足りなかったハングリー精神やチームのために戦うという精神を植え付けてもらった」と語るように、多くの経験と思考を大学生活を通じて身につけた。
さらに1年時からずっと兵働昭弘スカウトとコミュニケーションが取れていたことも大きかった。兵働スカウトは齊藤が第5中足骨を負傷した時、紅白戦の味方としてピッチに立っていた。
「多分、僕がラストチャンスだったことも知っていて、紅白戦が終わった後も『俺が上の人に言っておくよ』と言ってくれたんです。もともと僕を気にかけて話しかけてくれる偉大な先輩選手だったので、僕が卒業して1年目にスカウトになったと聞いた時は、運命だと思いました」