「キャリアを積む過程で日本が好きになり、日本人になりたいと思った」
――清水に加入した当時、Jリーグのレベルはどう映りましたか?
「みんな上手くて、強くて、判断が速く、高校とはすべてが違っていた。でも、自分がやっていけないとは思わなかったな。自分の特長であるドリブルやクロスはある程度通用していたから、スタミナなど足りない部分を補えば大丈夫だと思った」
――3年目の1999年に大ブレイクできた要因はなんですか?
「1年目、2年目と段階を踏んで成長できていたからね。しっかり練習して、綿密に体調を管理していたのが実を結んだんだと思う」
――その後、来日7年目の2001年3月、日本への帰化を申請します。
「日本の高校を卒業し、プロ選手としてキャリアを積む過程で日本が大好きになり、もっと長く居たい、ひいては日本人になりたいと思ったんだ。もちろん、日本代表の一員として日韓ワールドカップに出場したいという気持ちもあった。日本人になったとしても、日本代表に入れる保証などまったくなかったけどね」
――日韓ワールドカップでは、決勝トーナメントのトルコ戦で先発。前半終了間際に蹴ったFKがバーを直撃しましたが、あれはカーブのかかりが少し足りなかったのですか?
「蹴った瞬間、『入った!』と思った。雨が降っていたけど、その影響もなかったし、どうして入らなかったのか今でも上手く説明できない」
――その後、浦和へと移籍しますね。
「関東のビッグクラブでプレーすることで、自分がさらにレベルアップできると考えたんだ。実際に、いくつものタイトル(05年に天皇杯、06年にリーグ戦と天皇杯)を獲得できて、とても充実していたよ」
――06年のドイツ・ワールドカップではジーコ監督の下でレギュラーとして起用され、グループリーグのブラジル戦では玉田(圭司)選手の先制ゴールにつながるアシストを決めました。
「ジーコは子どもの頃からのアイドル。憧れの人が監督を務めるチームでワールドカップに出場し、しかもブラジルと対戦するなんて……。セレソンを倒すつもりで、死に物狂いでプレーしたし、玉田のシュートが決まった瞬間は鳥肌が立ったよ」
――07年にオーストリアのザルツブルクへ期限付き移籍した経緯は?
「いつか欧州でプレーしたいと思っていた。01年にオリンピアコス(ギリシャ)から好条件を提示された時は、ちょうど日本への帰化申請中でね。日本を離れると帰化のための条件を満たせなくなるので、やむなく断ったんだ。ワールドカップ後には今度はチャールトン(イングランド)からオファーを受けてクラブ間では合意していたんだけど、労働許可証が下りなかった。ザルツブルクからの誘いは“三度目の正直”で、『今度こそ行きたい!』と浦和のフロントに願い出たってわけさ」
――念願だった欧州の印象は?
「欧州の選手のパワー、そしてフィジカルコンタクトの激しさに正直驚いたよ。でも、自分のスピードとテクニックは通用すると思った」
――浦和に復帰後は、名古屋、栃木、岐阜と3クラブを渡り歩きます。
「浦和で出場機会が少なくなっていたし、ストイコビッチ監督から誘ってもらったからね。故障が多かったけど、10年に名古屋のJリーグ初制覇に少しでも貢献できたのが嬉しかったよ。昨年は岐阜が契約を更改してくれたら、もう1年プレーするつもりだった。でも、契約満了を言い渡されて……。もちろん日本で別のクラブを探す選択肢もあったけど、両親が住むマリンガでプレーしたいと思ったんだ」
――日本でやり残したことは?
「できることはすべてやり切った。悔いはないよ」
「みんな上手くて、強くて、判断が速く、高校とはすべてが違っていた。でも、自分がやっていけないとは思わなかったな。自分の特長であるドリブルやクロスはある程度通用していたから、スタミナなど足りない部分を補えば大丈夫だと思った」
――3年目の1999年に大ブレイクできた要因はなんですか?
「1年目、2年目と段階を踏んで成長できていたからね。しっかり練習して、綿密に体調を管理していたのが実を結んだんだと思う」
――その後、来日7年目の2001年3月、日本への帰化を申請します。
「日本の高校を卒業し、プロ選手としてキャリアを積む過程で日本が大好きになり、もっと長く居たい、ひいては日本人になりたいと思ったんだ。もちろん、日本代表の一員として日韓ワールドカップに出場したいという気持ちもあった。日本人になったとしても、日本代表に入れる保証などまったくなかったけどね」
――日韓ワールドカップでは、決勝トーナメントのトルコ戦で先発。前半終了間際に蹴ったFKがバーを直撃しましたが、あれはカーブのかかりが少し足りなかったのですか?
「蹴った瞬間、『入った!』と思った。雨が降っていたけど、その影響もなかったし、どうして入らなかったのか今でも上手く説明できない」
――その後、浦和へと移籍しますね。
「関東のビッグクラブでプレーすることで、自分がさらにレベルアップできると考えたんだ。実際に、いくつものタイトル(05年に天皇杯、06年にリーグ戦と天皇杯)を獲得できて、とても充実していたよ」
――06年のドイツ・ワールドカップではジーコ監督の下でレギュラーとして起用され、グループリーグのブラジル戦では玉田(圭司)選手の先制ゴールにつながるアシストを決めました。
「ジーコは子どもの頃からのアイドル。憧れの人が監督を務めるチームでワールドカップに出場し、しかもブラジルと対戦するなんて……。セレソンを倒すつもりで、死に物狂いでプレーしたし、玉田のシュートが決まった瞬間は鳥肌が立ったよ」
――07年にオーストリアのザルツブルクへ期限付き移籍した経緯は?
「いつか欧州でプレーしたいと思っていた。01年にオリンピアコス(ギリシャ)から好条件を提示された時は、ちょうど日本への帰化申請中でね。日本を離れると帰化のための条件を満たせなくなるので、やむなく断ったんだ。ワールドカップ後には今度はチャールトン(イングランド)からオファーを受けてクラブ間では合意していたんだけど、労働許可証が下りなかった。ザルツブルクからの誘いは“三度目の正直”で、『今度こそ行きたい!』と浦和のフロントに願い出たってわけさ」
――念願だった欧州の印象は?
「欧州の選手のパワー、そしてフィジカルコンタクトの激しさに正直驚いたよ。でも、自分のスピードとテクニックは通用すると思った」
――浦和に復帰後は、名古屋、栃木、岐阜と3クラブを渡り歩きます。
「浦和で出場機会が少なくなっていたし、ストイコビッチ監督から誘ってもらったからね。故障が多かったけど、10年に名古屋のJリーグ初制覇に少しでも貢献できたのが嬉しかったよ。昨年は岐阜が契約を更改してくれたら、もう1年プレーするつもりだった。でも、契約満了を言い渡されて……。もちろん日本で別のクラブを探す選択肢もあったけど、両親が住むマリンガでプレーしたいと思ったんだ」
――日本でやり残したことは?
「できることはすべてやり切った。悔いはないよ」