「20年間の日本での生活はすべてが鮮烈な思い出。ひとつだけ選ぶのは不可能さ」
長年に渡りJリーグ、そして日本代表を牽引した男は今年、故郷に凱旋し、サッカーを続けている。
父ウィルソンさん、母マリアさん、妹のアリーネさん、妻の直美さん、そして新生児から9歳までの2男2女に囲まれ、賑やかに談笑しながら、三都主アレサンドロはとびきりの笑顔を浮かべていた。
16歳で日本へ渡り、「ヴェンセール! ヴェンセール! ヴェンセール!」(勝つ! 勝つ! 勝つ!)の信条と「大和魂」を拠りどころとして、幾多の困難を一つひとつ乗り越えた。その結果、自らも予期しなかった大きな夢を実現したのだ。
異国でゼロから築いたキャリアと家族とともに、生まれ故郷へ。しかし、この“サムライ”は、自分を育んでくれた日本と日本サッカーへの熱い想いを忘れていなかった。
――◆――◆――
――故郷のマリンガへ戻ってきて、リラックスしている様子ですね。
「久しぶりに親族、知人、友人たちのそばで生活し、彼らの目の前でプレーする。最高の気分だね」
――奥さんやお子さんもブラジルでの生活に適応できていますか?
「オフはいつも家族全員で帰国していたから、全然問題ないよ。妻も子どももポルトガル語が話せるし、こちらの食事や気候にも馴染んでいる」
――2月下旬、パラナ州選手権1部マリンガFCに入団し、3月11日のカスカヴェウ戦で
後半途中から初出場しました。
「複数のクラブからオファーをもらったけど、地元でプレーしたかったんだ。その希望が叶い、ずっとコンディション調整に努めてきた。カスカヴェウ戦は、僕のパスが起点となってPKを獲得し、それが決まって1-0で勝った。ただ、実戦から遠ざかっていたから、試合勘が少し鈍っているかな。でも、身体は大丈夫。故障もないし、これからチームメイトとの連係を深めていけば、十分やっていけると思う」
――20年の日本での生活を振り返って、一番印象に残っているのは?
「たくさんありすぎて、ひとつだけ挙げるのは不可能だね。明徳(義塾高)に入って環境の違いに苦しんだこと、清水に加入してプロになる夢を実現したこと、3年目のJリーグMVP、日本へ帰化して二度のワールドカップに出場したこと、浦和、名古屋という日本を代表するビッグクラブでプレーしたこと、欧州移籍、そして栃木と岐阜でのプレー、すべてが鮮烈な思い出として残っているよ」
――日本へ渡る前、これほどのキャリアを積めると考えていましたか?
「予想はしていなかった。プロになりたいという一心で日本へ向かったからね。最初は本当に大変だったけど、周囲の人たちに助けられてなんとかやってこられた。子どもの頃から、僕は神様を信じている。そして、日本には何人も神様がいて、僕を救ってくれた。心から感謝している」
――もし人生をやり直すとしたら、同じ決断をしますか?
「そうだね。間違いないよ」
――それでは、もし自分の息子が同じ状況に置かれたとしたら?
「うーん、それはどうかなあ(笑)。親となると、また話は別だよね。だから、今となっては、当時、母が反対した気持ちはよく分かるんだ」
――「ブラジルへ帰りたい」とは思わなかったのですか?
「いや、それは一度もなかった。言葉と食事には苦労したし、ブラジルのすべてが恋しかったけど、僕には『プロになるんだ』という確固たる決意があったからね」
父ウィルソンさん、母マリアさん、妹のアリーネさん、妻の直美さん、そして新生児から9歳までの2男2女に囲まれ、賑やかに談笑しながら、三都主アレサンドロはとびきりの笑顔を浮かべていた。
16歳で日本へ渡り、「ヴェンセール! ヴェンセール! ヴェンセール!」(勝つ! 勝つ! 勝つ!)の信条と「大和魂」を拠りどころとして、幾多の困難を一つひとつ乗り越えた。その結果、自らも予期しなかった大きな夢を実現したのだ。
異国でゼロから築いたキャリアと家族とともに、生まれ故郷へ。しかし、この“サムライ”は、自分を育んでくれた日本と日本サッカーへの熱い想いを忘れていなかった。
――◆――◆――
――故郷のマリンガへ戻ってきて、リラックスしている様子ですね。
「久しぶりに親族、知人、友人たちのそばで生活し、彼らの目の前でプレーする。最高の気分だね」
――奥さんやお子さんもブラジルでの生活に適応できていますか?
「オフはいつも家族全員で帰国していたから、全然問題ないよ。妻も子どももポルトガル語が話せるし、こちらの食事や気候にも馴染んでいる」
――2月下旬、パラナ州選手権1部マリンガFCに入団し、3月11日のカスカヴェウ戦で
後半途中から初出場しました。
「複数のクラブからオファーをもらったけど、地元でプレーしたかったんだ。その希望が叶い、ずっとコンディション調整に努めてきた。カスカヴェウ戦は、僕のパスが起点となってPKを獲得し、それが決まって1-0で勝った。ただ、実戦から遠ざかっていたから、試合勘が少し鈍っているかな。でも、身体は大丈夫。故障もないし、これからチームメイトとの連係を深めていけば、十分やっていけると思う」
――20年の日本での生活を振り返って、一番印象に残っているのは?
「たくさんありすぎて、ひとつだけ挙げるのは不可能だね。明徳(義塾高)に入って環境の違いに苦しんだこと、清水に加入してプロになる夢を実現したこと、3年目のJリーグMVP、日本へ帰化して二度のワールドカップに出場したこと、浦和、名古屋という日本を代表するビッグクラブでプレーしたこと、欧州移籍、そして栃木と岐阜でのプレー、すべてが鮮烈な思い出として残っているよ」
――日本へ渡る前、これほどのキャリアを積めると考えていましたか?
「予想はしていなかった。プロになりたいという一心で日本へ向かったからね。最初は本当に大変だったけど、周囲の人たちに助けられてなんとかやってこられた。子どもの頃から、僕は神様を信じている。そして、日本には何人も神様がいて、僕を救ってくれた。心から感謝している」
――もし人生をやり直すとしたら、同じ決断をしますか?
「そうだね。間違いないよ」
――それでは、もし自分の息子が同じ状況に置かれたとしたら?
「うーん、それはどうかなあ(笑)。親となると、また話は別だよね。だから、今となっては、当時、母が反対した気持ちはよく分かるんだ」
――「ブラジルへ帰りたい」とは思わなかったのですか?
「いや、それは一度もなかった。言葉と食事には苦労したし、ブラジルのすべてが恋しかったけど、僕には『プロになるんだ』という確固たる決意があったからね」