清水商時代は年間300日の紅白戦。得点感覚には自信があった
中田らが初合流した93年秋の合宿は招集メンバー40人程度の大所帯。ラージグループから選手を絞り込み、使える人間だけを残すのが田中監督の狙いだったのだろう。安永も戦々恐々としたようだが、そのままチームに帯同し、94年1月のダラスカップなどに参戦。5月の1次予選(静岡)、東南アジア遠征などを経て、9月の最終予選(94年アジアユース選手権)に向かった。4-4-2を基本布陣とするチームの完成度も高まり、アジア突破は十分可能だと見られていた。
ところが、高温多湿・ピッチ状態劣悪のインドネシア・ジャカルタで、彼らは困難を強いられる。タイとの初戦を0-2で苦杯。最悪のスタートになってしまったのだ。安永は重要な一戦でまさかの先発落ち。同室の西澤とともに寝坊して練習を30分以上遅刻した罰を受けたからだった。得点力ある2人を外すのは田中監督も苦渋の決断だったに違いないが、日本は窮地に陥ってしまう。
そこで次のバーレーン戦で安永をスタメンに復帰させたところ、早速ゴールという結果を残す。チームも2-0で初勝利し、やっと本調子が出てきた。その後、クウェートに2-0、韓国に1-0で勝利する。韓国戦は退場者が出る大乱戦となったが、キャプテン・伊藤の勇敢なプレーでチーム全体が落ち着き、彼自身のPKで勝ち切ったのだ。「あの時の卓はスーパーだった」と安永もしみじみ語っている。その後、大一番の準決勝・イラク戦では3-0と勝利し、悲願の世界切符を手にした。最終的にはシリアに破れて2位にとどまったが、最大の目標を達成することができたのだ。
「僕はバーレーン戦と準決勝・イラク戦で合計2点を取ったけど、得点感覚にはものすごく自信がありました。当時は清水商(現清水桜ケ丘)3年だったけど、年間300日は朝夕の練習で紅白戦をこなし、平均2~3点は取っていたので、年間にすれば600~700点は取っていたと思います。その自信を持って公式戦を落ち着いて戦えた。試合では必ず似たようなシチュエーションが起きるので、冷静にゴールを決めることもできました。ただ、プロになると高校の時ほどは紅白戦の数が多くないので、1つのチャンスを決める重要度は高まるものの、ゴール前での落ち着きや自信がなくなってしまう。僕にとっては、それは足かせになったと後々になって感じました」と安永は点取り屋の成長に必要なポイントを改めて強調していた。
ところが、高温多湿・ピッチ状態劣悪のインドネシア・ジャカルタで、彼らは困難を強いられる。タイとの初戦を0-2で苦杯。最悪のスタートになってしまったのだ。安永は重要な一戦でまさかの先発落ち。同室の西澤とともに寝坊して練習を30分以上遅刻した罰を受けたからだった。得点力ある2人を外すのは田中監督も苦渋の決断だったに違いないが、日本は窮地に陥ってしまう。
そこで次のバーレーン戦で安永をスタメンに復帰させたところ、早速ゴールという結果を残す。チームも2-0で初勝利し、やっと本調子が出てきた。その後、クウェートに2-0、韓国に1-0で勝利する。韓国戦は退場者が出る大乱戦となったが、キャプテン・伊藤の勇敢なプレーでチーム全体が落ち着き、彼自身のPKで勝ち切ったのだ。「あの時の卓はスーパーだった」と安永もしみじみ語っている。その後、大一番の準決勝・イラク戦では3-0と勝利し、悲願の世界切符を手にした。最終的にはシリアに破れて2位にとどまったが、最大の目標を達成することができたのだ。
「僕はバーレーン戦と準決勝・イラク戦で合計2点を取ったけど、得点感覚にはものすごく自信がありました。当時は清水商(現清水桜ケ丘)3年だったけど、年間300日は朝夕の練習で紅白戦をこなし、平均2~3点は取っていたので、年間にすれば600~700点は取っていたと思います。その自信を持って公式戦を落ち着いて戦えた。試合では必ず似たようなシチュエーションが起きるので、冷静にゴールを決めることもできました。ただ、プロになると高校の時ほどは紅白戦の数が多くないので、1つのチャンスを決める重要度は高まるものの、ゴール前での落ち着きや自信がなくなってしまう。僕にとっては、それは足かせになったと後々になって感じました」と安永は点取り屋の成長に必要なポイントを改めて強調していた。