アトレティコ・ナシオナルの計らいで王者に。

ブラジル人の心を打ったのが、16年11月30日の出来事。アトレティコ・ナシオナルのホームスタジアムで催された追悼セレモニーには、10万を超える群衆が詰めかけた。会場に溢れていたのは、メデジン市民やコロンビア国民の思いやりだ。 (C)Getty Images
シャペコエンセは1973年、ブラジル南部の人口約21万の中都市シャペコで創設された新興クラブだ。当初は成績が振るわず、財政状況が悪化して存続の危機に立たされた時期もあった。しかし08年、地元で果物の配送業を営む豪腕実業家のサンドロ・パラオーロが、「南米の頂点を目指す」という無謀としか思えない目標を掲げて会長に就任。地元政財界に呼びかけてスポンサーを募り財政基盤を立て直すと、下部組織に投資して若手育成に力を注ぎ強化を図った。
当時の年間予算は、国内ビッグクラブの数十分の一。外部から選手を獲得する場合は、「費用対効果を重視するとともに、チームのために血を流すことを厭わない選手だけを集めた」(故パラオーロ会長)という。
シャペコは小さな都市で、商店やレストランなどで選手と市民が直接触れ合う機会が多い。選手は頼まれるといつでもサインに応じ、笑顔で写真に納まる。そんな関係性が築かれていたからこそ、市民は選手に親しみを覚え、家族連れでスタジアムに足を運んで懸命に応援し、選手たちも市民の熱い応援を受けて死力を尽くした。
09年に全国リーグ4部に参戦して3位に食い込み3部へ昇格。12年に2部へ上がると、13年にトップリーグ入りを果たした。わずか5年で4部から1部へステップアップを遂げるという世界でも前例のない快挙だった。さらに16年は、コパ・スダメリカーナでインデペンディエンテ、サン・ロレンソ(ともにアルゼンチン)などの強豪を撃破してファイナルに進出。各方面で「奇跡のクラブ」と称賛され、市民にとってシャペコエンセは最大の誇りにしてアイデンティティーとなっていた。
愛するクラブの快進撃に、街は沸き立っていた。それだけに、ショックは大きかった。まるで肉親か親しい友人を失ったかのように。
事故の第一報が流れた11月29日、多くの市民が自然発生的にクラブハウスへ集まった。詳細を聞いては泣き崩れていくファンたち。見知らぬ者同士が抱き合い、互いを慰めた。学校では、生徒も先生も泣き出して授業にならず、以後4日間、市内のすべての学校が休校となった。そしてシャペコ市は、30日間、喪に服することを発表するのである。
事故の知らせは瞬く間に世界中へと伝わり、レアル・マドリー、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドといった欧州クラブがチーム練習や試合の前に黙祷を捧げれば、リオネル・メッシやクリスチアーノ・ロナウドらスーパースターが追悼の言葉を寄せて、故人を悼んだ。
南米サッカー連盟もすぐに反応した。コパ・スダメリカーナ決勝の中止を決定したのだ。対戦するはずだったアトレティコ・ナシオナルは、「タイトルはシャペコエンセに与えられるべきだ」と訴え、これを受けて連盟は後日、シャペコエンセを優勝チームに認定している。
ブラジル人の心を打ったのが、11月30日の出来事だ。コパ・スダメリカーナ決勝の第1レグが行なわれるはずだったその日の夜、A・ナシオナルのホームスタジアムで追悼セレモニーが催され、10万を超える群集が詰めかけたのである(スタンドは4万人の観衆で埋まり、入りきらなかった6万人以上がスタジアムを取り囲んだ)。この模様はブラジルでもテレビ中継された。会場に溢れていたのは、A・ナシオナルのサポーター、メデジン市民、コロンビア国民の思いやりだった。
12月3日には選手、コーチングスタッフ、クラブ関係者らの遺体がブラジルに搬送され、シャペコエンセのホームスタジアムで合同葬が営まれた。スタンドは2万人で埋まり、豪雨の中、選手たちの棺がピッチに運び込まれる。
「チャンピオンが帰ってきた!」
サポーターたちは涙を流しながら、何度も何度もそう叫び続けた。
当時の年間予算は、国内ビッグクラブの数十分の一。外部から選手を獲得する場合は、「費用対効果を重視するとともに、チームのために血を流すことを厭わない選手だけを集めた」(故パラオーロ会長)という。
シャペコは小さな都市で、商店やレストランなどで選手と市民が直接触れ合う機会が多い。選手は頼まれるといつでもサインに応じ、笑顔で写真に納まる。そんな関係性が築かれていたからこそ、市民は選手に親しみを覚え、家族連れでスタジアムに足を運んで懸命に応援し、選手たちも市民の熱い応援を受けて死力を尽くした。
09年に全国リーグ4部に参戦して3位に食い込み3部へ昇格。12年に2部へ上がると、13年にトップリーグ入りを果たした。わずか5年で4部から1部へステップアップを遂げるという世界でも前例のない快挙だった。さらに16年は、コパ・スダメリカーナでインデペンディエンテ、サン・ロレンソ(ともにアルゼンチン)などの強豪を撃破してファイナルに進出。各方面で「奇跡のクラブ」と称賛され、市民にとってシャペコエンセは最大の誇りにしてアイデンティティーとなっていた。
愛するクラブの快進撃に、街は沸き立っていた。それだけに、ショックは大きかった。まるで肉親か親しい友人を失ったかのように。
事故の第一報が流れた11月29日、多くの市民が自然発生的にクラブハウスへ集まった。詳細を聞いては泣き崩れていくファンたち。見知らぬ者同士が抱き合い、互いを慰めた。学校では、生徒も先生も泣き出して授業にならず、以後4日間、市内のすべての学校が休校となった。そしてシャペコ市は、30日間、喪に服することを発表するのである。
事故の知らせは瞬く間に世界中へと伝わり、レアル・マドリー、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドといった欧州クラブがチーム練習や試合の前に黙祷を捧げれば、リオネル・メッシやクリスチアーノ・ロナウドらスーパースターが追悼の言葉を寄せて、故人を悼んだ。
南米サッカー連盟もすぐに反応した。コパ・スダメリカーナ決勝の中止を決定したのだ。対戦するはずだったアトレティコ・ナシオナルは、「タイトルはシャペコエンセに与えられるべきだ」と訴え、これを受けて連盟は後日、シャペコエンセを優勝チームに認定している。
ブラジル人の心を打ったのが、11月30日の出来事だ。コパ・スダメリカーナ決勝の第1レグが行なわれるはずだったその日の夜、A・ナシオナルのホームスタジアムで追悼セレモニーが催され、10万を超える群集が詰めかけたのである(スタンドは4万人の観衆で埋まり、入りきらなかった6万人以上がスタジアムを取り囲んだ)。この模様はブラジルでもテレビ中継された。会場に溢れていたのは、A・ナシオナルのサポーター、メデジン市民、コロンビア国民の思いやりだった。
12月3日には選手、コーチングスタッフ、クラブ関係者らの遺体がブラジルに搬送され、シャペコエンセのホームスタジアムで合同葬が営まれた。スタンドは2万人で埋まり、豪雨の中、選手たちの棺がピッチに運び込まれる。
「チャンピオンが帰ってきた!」
サポーターたちは涙を流しながら、何度も何度もそう叫び続けた。