広島などJ1クラブのオファーをすべて断ってベガルタに懸けた。
「8割方のひとはJ1でプレーしたほうがいいと言っていたけれど、僕の気持ちは変わらなかった。降格で仙台の人々を失望させてしまったことは、僕らの責任。あれほど素晴らしいサポーターが存在するチームは、J1にいないといけないんです」
当時に示した青雲の想いを証明するかのように、寿人は翌年、仙台へと完全移籍。広島などJ1クラブのオファーをすべて断ってベガルタに懸けた。翌年のアテネ五輪出場を考えれば、J2でプレーすることは不利。実際、彼は五輪代表からは落選した。しかし、それは覚悟の上。この決断に、仙台サポーターは熱狂。彼は単独でラジオ番組のレギュラーとなるほど、圧倒的な支持を集めた。
J1で9点をとった若きストライカーであれば、オファーは当然。それより何より、寿人の所有権は当時、ジェフ市原に存在した。イビチャ・オシムが監督に就任し、チームは優勝争いの主役を演じた。戻りたいと彼が熱望すれば、望みは叶えられたはずである。
それでも彼は仙台残留を望み、退路を断つために完全移籍を望んだ。その想いを市原は尊重し、少年の頃から育てた逸材を仙台へと送り出したのだ。
翌年、寿人は20得点というゴールラッシュを見せながら、仙台をJ1に戻すことはできなかった。アディショナルタイムで2点を叩き込み、圧巻の強さを見せつけていた川崎と引き分けに持ちこむなど、驚異的な働きを見せたにも関わらず、だ。
それでも彼は、仙台に残る。そう思われていた。だが当時の彼を取材していた記者のなかには「彼のキャリアを考えた時、これ以上J2に縛り付けておくわけにはいかないのではないか」と思う人もいた。
その思いは現実となり、佐藤寿人は広島への移籍を決断する。2年連続のオファー。クラブ史上最高額と言っていい満額の移籍金。広島の熱意は、彼の胸の奥に眠らせていたはずの「J1でプレーしたい。もっと上手くなりたい」という気持ちに火をつけた。プロとしての向上心や成長への想いは、仙台への強い愛着を上回った。
「一時の感情に左右されるのではなく、サッカー選手として、プロ選手として、どうあるべきか。どうありたいのか」
その自問自答の結果だった。
当時に示した青雲の想いを証明するかのように、寿人は翌年、仙台へと完全移籍。広島などJ1クラブのオファーをすべて断ってベガルタに懸けた。翌年のアテネ五輪出場を考えれば、J2でプレーすることは不利。実際、彼は五輪代表からは落選した。しかし、それは覚悟の上。この決断に、仙台サポーターは熱狂。彼は単独でラジオ番組のレギュラーとなるほど、圧倒的な支持を集めた。
J1で9点をとった若きストライカーであれば、オファーは当然。それより何より、寿人の所有権は当時、ジェフ市原に存在した。イビチャ・オシムが監督に就任し、チームは優勝争いの主役を演じた。戻りたいと彼が熱望すれば、望みは叶えられたはずである。
それでも彼は仙台残留を望み、退路を断つために完全移籍を望んだ。その想いを市原は尊重し、少年の頃から育てた逸材を仙台へと送り出したのだ。
翌年、寿人は20得点というゴールラッシュを見せながら、仙台をJ1に戻すことはできなかった。アディショナルタイムで2点を叩き込み、圧巻の強さを見せつけていた川崎と引き分けに持ちこむなど、驚異的な働きを見せたにも関わらず、だ。
それでも彼は、仙台に残る。そう思われていた。だが当時の彼を取材していた記者のなかには「彼のキャリアを考えた時、これ以上J2に縛り付けておくわけにはいかないのではないか」と思う人もいた。
その思いは現実となり、佐藤寿人は広島への移籍を決断する。2年連続のオファー。クラブ史上最高額と言っていい満額の移籍金。広島の熱意は、彼の胸の奥に眠らせていたはずの「J1でプレーしたい。もっと上手くなりたい」という気持ちに火をつけた。プロとしての向上心や成長への想いは、仙台への強い愛着を上回った。
「一時の感情に左右されるのではなく、サッカー選手として、プロ選手として、どうあるべきか。どうありたいのか」
その自問自答の結果だった。