『サッカー選手として飯が食える』ことがとにかく嬉しかった。
――タイでチャレンジすることになった経緯をお聞かせいただけますか?
ここは思い出深い話なので長くなりますよ~(笑)。大学を卒業してすぐに、Jリーグ準加盟クラブとして承認されたばかりのガイナーレ鳥取(当時JFL所属。以下、鳥取)でお世話になったのですが、そこで恩師であるヴィタヤさん(ヴィタヤ・ラオハクル氏/選手キャリアのほとんどを日本と西ドイツのクラブで過ごし、ガンバ大阪のヘッドコーチなど日本での指導歴も豊富なタイサッカーのレジェンドのひとり)と出会ったんです。その鳥取2年目で戦力外になってしまった後に佐川印刷SCへ移籍して、社員選手として午前は練習、午後から社業に就くセミプロ選手になりました。
京都の街も好きで、チームメイトも良い奴ばっかりで。好きなサッカーが出来て何も不自由なく生活していたのですが、26歳のある日、『俺の目標はプロサッカー選手として飯を食うことだよな』と我に帰り、今のままじゃダメだろうと。それで一念発起して、Jリーグへつながる可能性があるステージで挑戦しようと決意したんです。もしダメだったら選手を引退しようとも考え、来季は他で挑戦したい意思をチームへ伝えました。そうしたら、その次の試合にヴィタヤさんを知る共通の友人の方が試合を観に来てくださっていて『ヴィタヤが話したがっている。タイサッカーに興味があるなら電話してみたらどうだい?』とヴィタヤさんの携帯番号が掛かれたメモ書きをくれたんです。これって凄いタイミングじゃないですか? それで直感的に『チャレンジすればプロサッカー選手になれるかも』と思って、直ぐに国際電話を掛けたんです。タイのサッカー事情なんてまったく知らないのに(笑)。
――Jリーガーになることを夢見ていた青年がそれを捨ててタイへ。決定的な理由は何だったのでしょうか?
元々『プロ選手=Jリーガー』という選択肢しか持ち合わせていなかった私に、『海外にもサッカーはある、海外でもプロサッカー選手になれるんだ』という新たな選択肢をヴィタヤさんが提供してくれたからに他なりません。深く考えずに、勢いで飛び出た感じでした。
――その勢いで飛び出し、始まった海外での生活はどのようなものだったのですか?
チョンブリー、ハジャイと日本人がほとんどいない地方都市のチームでのプレーが続いて、タイ語と英語しか使えない生活にストレスを感じていたことをよく覚えています。ただ半年間くらい、夢だった『サッカー選手として飯が食える』ことがとにかく嬉しくて、また目の前で起こること、すべてが新鮮だったこともあり、生活に対してのストレスはそこまで無かったです。でもいろんなことに慣れ出すと『あれがダメだ、これがダメだ』と日本と比較し出した自分がいて。それがストレスへと変わっていったことを覚えています。
――その気持ちはよく分かります。ストレスからホームシックはなかったんですか?
ありありでしたよ。夜になると寂しくて、枕を抱いて寝たり。家族や日本人の友人へ用もないのに電話したりもしていましたよ(笑)。日本で親元に居た時に、家族と離れて暮らす寂しさを感じたことは皆無だったんですけど。バンコクへ移り住んでから妻と出会って、今では娘も授かって。寂しい経験をしたからこそ、家族との絆の大切さが分かったんだと思います。家族は宝ですよ。
――なかでも一番苦労したことは何だったのでしょうか?
やっぱり最初にぶち当たったのは『言語の壁』でした。特にチームメイトとのコミュニケーションが取れずにストレスを募らせていました。日本には義務教育という素晴らしい教育制度があって、英語授業もある。一番馴染みのある外国語が英語だと思うんです。ただ日本で生活していると、その英語を使う場面なんてほとんどないじゃないですか。文法が分かっていても話し方を知らないみたいな。チームメイトの外国人助っ人選手なんか英語が上手下手なんて関係ないんですよ、兎に角しゃべる。相手に気持ちを伝える術を持ち合わせているんですよ。自分というと、自ら思いを伝えられないストレスが募る一方で、それが悔しくて悔しくて。なのでタイ語を勉強する前に、まず英語習得を心掛けたんです。
ここは思い出深い話なので長くなりますよ~(笑)。大学を卒業してすぐに、Jリーグ準加盟クラブとして承認されたばかりのガイナーレ鳥取(当時JFL所属。以下、鳥取)でお世話になったのですが、そこで恩師であるヴィタヤさん(ヴィタヤ・ラオハクル氏/選手キャリアのほとんどを日本と西ドイツのクラブで過ごし、ガンバ大阪のヘッドコーチなど日本での指導歴も豊富なタイサッカーのレジェンドのひとり)と出会ったんです。その鳥取2年目で戦力外になってしまった後に佐川印刷SCへ移籍して、社員選手として午前は練習、午後から社業に就くセミプロ選手になりました。
京都の街も好きで、チームメイトも良い奴ばっかりで。好きなサッカーが出来て何も不自由なく生活していたのですが、26歳のある日、『俺の目標はプロサッカー選手として飯を食うことだよな』と我に帰り、今のままじゃダメだろうと。それで一念発起して、Jリーグへつながる可能性があるステージで挑戦しようと決意したんです。もしダメだったら選手を引退しようとも考え、来季は他で挑戦したい意思をチームへ伝えました。そうしたら、その次の試合にヴィタヤさんを知る共通の友人の方が試合を観に来てくださっていて『ヴィタヤが話したがっている。タイサッカーに興味があるなら電話してみたらどうだい?』とヴィタヤさんの携帯番号が掛かれたメモ書きをくれたんです。これって凄いタイミングじゃないですか? それで直感的に『チャレンジすればプロサッカー選手になれるかも』と思って、直ぐに国際電話を掛けたんです。タイのサッカー事情なんてまったく知らないのに(笑)。
――Jリーガーになることを夢見ていた青年がそれを捨ててタイへ。決定的な理由は何だったのでしょうか?
元々『プロ選手=Jリーガー』という選択肢しか持ち合わせていなかった私に、『海外にもサッカーはある、海外でもプロサッカー選手になれるんだ』という新たな選択肢をヴィタヤさんが提供してくれたからに他なりません。深く考えずに、勢いで飛び出た感じでした。
――その勢いで飛び出し、始まった海外での生活はどのようなものだったのですか?
チョンブリー、ハジャイと日本人がほとんどいない地方都市のチームでのプレーが続いて、タイ語と英語しか使えない生活にストレスを感じていたことをよく覚えています。ただ半年間くらい、夢だった『サッカー選手として飯が食える』ことがとにかく嬉しくて、また目の前で起こること、すべてが新鮮だったこともあり、生活に対してのストレスはそこまで無かったです。でもいろんなことに慣れ出すと『あれがダメだ、これがダメだ』と日本と比較し出した自分がいて。それがストレスへと変わっていったことを覚えています。
――その気持ちはよく分かります。ストレスからホームシックはなかったんですか?
ありありでしたよ。夜になると寂しくて、枕を抱いて寝たり。家族や日本人の友人へ用もないのに電話したりもしていましたよ(笑)。日本で親元に居た時に、家族と離れて暮らす寂しさを感じたことは皆無だったんですけど。バンコクへ移り住んでから妻と出会って、今では娘も授かって。寂しい経験をしたからこそ、家族との絆の大切さが分かったんだと思います。家族は宝ですよ。
――なかでも一番苦労したことは何だったのでしょうか?
やっぱり最初にぶち当たったのは『言語の壁』でした。特にチームメイトとのコミュニケーションが取れずにストレスを募らせていました。日本には義務教育という素晴らしい教育制度があって、英語授業もある。一番馴染みのある外国語が英語だと思うんです。ただ日本で生活していると、その英語を使う場面なんてほとんどないじゃないですか。文法が分かっていても話し方を知らないみたいな。チームメイトの外国人助っ人選手なんか英語が上手下手なんて関係ないんですよ、兎に角しゃべる。相手に気持ちを伝える術を持ち合わせているんですよ。自分というと、自ら思いを伝えられないストレスが募る一方で、それが悔しくて悔しくて。なのでタイ語を勉強する前に、まず英語習得を心掛けたんです。