東福岡高で大人の階段を“登らされた”
長友佑都(現・FC東京)や毎熊晟矢(現・AZ/オランダ)ら、のちの日本代表を輩出し、翔生の同級生にも荒木遼太郎(現・鹿島アントラーズ)や大森真吾(現・北海道コンサドーレ札幌)らがいた東福岡高は、どんな場所だったのか。
「もう、思い出しただけで汗をかいちゃいますね。生活指導の先生にしっかり指導されました(笑)。大人の階段を“登らされた”と言うか、正されたというか...。
サッカーの面で言えば、走る・戦う。ピッチ外も含めて、規律は徹底されていました。ビブス1枚でも地面に落とさないだとか、礼儀の面もよく言われていましたね。例えば、プレーが上手くいかずに物に当れば、絶対にアウト。すぐに『走れ』と言われて、グラウンドの周りを延々と走らされます。
めちゃくちゃキツかったけど、必要な3年間でした。サッカーを上手くなるために行きましたけど、結果的には人間性の部分で成長できました。高校入学までは自由でしたが、サッカーをやり続けるためには変わらなければいけないなと感じさせられましたし、実際、変われたと思います」
3年次の選手権では背番号7を背負いながらベンチを温めるなど、サッカーの面では不完全燃焼な部分もあったのかもしれない。ただ、本人が手応えを感じたように、ひとりの人間として伸びた3年間だったのは間違いない。そして、そんな彼の姿を評価したクラブがあった。元日本代表の岡田武史氏がオーナーを務める、当時JFLのFC今治だった。
【記事】「アイデア豊富で素晴らしい」“天才”小野伸二が絶賛した29歳の元日本代表は?「見ている人は、『なんだこのパス』って思うかもしれないですけど...」
「もう、思い出しただけで汗をかいちゃいますね。生活指導の先生にしっかり指導されました(笑)。大人の階段を“登らされた”と言うか、正されたというか...。
サッカーの面で言えば、走る・戦う。ピッチ外も含めて、規律は徹底されていました。ビブス1枚でも地面に落とさないだとか、礼儀の面もよく言われていましたね。例えば、プレーが上手くいかずに物に当れば、絶対にアウト。すぐに『走れ』と言われて、グラウンドの周りを延々と走らされます。
めちゃくちゃキツかったけど、必要な3年間でした。サッカーを上手くなるために行きましたけど、結果的には人間性の部分で成長できました。高校入学までは自由でしたが、サッカーをやり続けるためには変わらなければいけないなと感じさせられましたし、実際、変われたと思います」
3年次の選手権では背番号7を背負いながらベンチを温めるなど、サッカーの面では不完全燃焼な部分もあったのかもしれない。ただ、本人が手応えを感じたように、ひとりの人間として伸びた3年間だったのは間違いない。そして、そんな彼の姿を評価したクラブがあった。元日本代表の岡田武史氏がオーナーを務める、当時JFLのFC今治だった。
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翔生は当時、サッカーへの自信こそ失っていなかったが、3年生の夏頃までJクラブから声はかけてもらえず、「そういうことなのかな」と他の進路を探っていた。そんな翔生に秋に唯一オファーを出してくれたのが今治だった。本人は当時を次のように振り返る。
「今治の強化部にいた高司(裕也)さんが僕の出ていた試合を見てくれて、『練習参加だけでも良いから来てくれ』とお話をいただきました。オーナーの岡田さんは小さい頃から知っていて、その下でプレーしてみたいとの想いもあり、加入を決めました」
また、オファーを受けるか悩んでいた翔生の背中を押した人物もいた。
「ギリギリのオファーだったので悩みましたが、東福岡の森重(潤也)監督が『大学や社会人リーグではなく、なるべくプロに近い環境のほうが翔生には合っている』と言ってくれたので、それを信じて進路を決めました」
高校での厳しい3年間を過ごし、自ら掴み取ったプロへの切符(当時JFLに所属していた今治とはプロ契約)。2年前にJ1のG大阪に入団した兄・湧矢とカテゴリは異なるが、自身の努力次第で憧れの兄と対戦できるチャンスを得られる。「絶対に這い上がってJ1に行く」と、翔生はルーキーイヤーから燃えていた。
実際、キャンプから一定の手応えはあったという。スピードや強度の差は多少なりとも感じたものの、「やれないほどではない」というのが当時の翔生の感覚だった。
だが、翔生は思い描いた通りのスタートを切れず。初年度から長いトンネルに迷い込み、今治では苦しい4年間を過ごすことになる。
「今治の強化部にいた高司(裕也)さんが僕の出ていた試合を見てくれて、『練習参加だけでも良いから来てくれ』とお話をいただきました。オーナーの岡田さんは小さい頃から知っていて、その下でプレーしてみたいとの想いもあり、加入を決めました」
また、オファーを受けるか悩んでいた翔生の背中を押した人物もいた。
「ギリギリのオファーだったので悩みましたが、東福岡の森重(潤也)監督が『大学や社会人リーグではなく、なるべくプロに近い環境のほうが翔生には合っている』と言ってくれたので、それを信じて進路を決めました」
高校での厳しい3年間を過ごし、自ら掴み取ったプロへの切符(当時JFLに所属していた今治とはプロ契約)。2年前にJ1のG大阪に入団した兄・湧矢とカテゴリは異なるが、自身の努力次第で憧れの兄と対戦できるチャンスを得られる。「絶対に這い上がってJ1に行く」と、翔生はルーキーイヤーから燃えていた。
実際、キャンプから一定の手応えはあったという。スピードや強度の差は多少なりとも感じたものの、「やれないほどではない」というのが当時の翔生の感覚だった。
だが、翔生は思い描いた通りのスタートを切れず。初年度から長いトンネルに迷い込み、今治では苦しい4年間を過ごすことになる。