マドリーは中長期的なスパンで物事を考えることができた
より解釈の難しい話題に移ろう。マドリーでは、誰もが誰がクラブを牛耳っているかを知っている。フロレンティーノはその過程で多くのことを学び、権力を蓄積させ、その使い方をブラッシュアップしてきた。
だから権力者としての威厳がない会長なら決して許されないだろうリスクの伴う決断を下すこともできた。前述のC・ロナウドとS・ラモスの退団はその好例だ。
同様の理由で、目先のことばかりに目を向け、右往左往するサッカーという環境の中で、マドリーは中長期的なスパンで物事を考えることができた。緊急性よりも最善の利益を優先させる戦略的価値の高い視点だ。
どんなに将来を嘱望されても、若手選手の獲得はうまくいかない場合がある。しかしその若さゆえに、売却する際に価値を見出すことが可能だ。成功すれば、メリットばかりで、しかも長期的な活躍が保証される。
マドリーの世代交代がスムーズに進んでいるのはそうした強化戦略の賜物であり、だからこそ背番号9を空位にしてエムバペの加入を待つこともできた。このような忍耐は、サッカーという情熱的なテリトリーではほとんど英雄的行為ですらある。
だから権力者としての威厳がない会長なら決して許されないだろうリスクの伴う決断を下すこともできた。前述のC・ロナウドとS・ラモスの退団はその好例だ。
同様の理由で、目先のことばかりに目を向け、右往左往するサッカーという環境の中で、マドリーは中長期的なスパンで物事を考えることができた。緊急性よりも最善の利益を優先させる戦略的価値の高い視点だ。
どんなに将来を嘱望されても、若手選手の獲得はうまくいかない場合がある。しかしその若さゆえに、売却する際に価値を見出すことが可能だ。成功すれば、メリットばかりで、しかも長期的な活躍が保証される。
マドリーの世代交代がスムーズに進んでいるのはそうした強化戦略の賜物であり、だからこそ背番号9を空位にしてエムバペの加入を待つこともできた。このような忍耐は、サッカーという情熱的なテリトリーではほとんど英雄的行為ですらある。
ウェンブリーよ、ライトアップして、君より長い歴史を持っているマドリーに光を当ててくれ。
明晰な頭脳と相手を騙す体躯を持ち、荘厳なプレーの賢者であり、去り際も戦略的なトニ・クロースや、カンテラ出身の誇り高きキャプテンにして、マドリーというクラブの奥深さを体現する悲観主義的なDFにして、現時点で5度のCL優勝という金字塔を打ち立てた控えめな男、ナチョにスポットライトを照らしてくれ。
ヴィニシウスの決意、ルカ・モドリッチの威厳、ベリンガムの気品にも。この映画のようなマドリーに光を、もっと光を。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳●下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙に掲載されたバルダーノ氏のコラムを翻訳配信しています。
【記事】久保建英、“マドリー寄り”への不満発言で古巣復帰は完全消滅か。「ぺレス会長が憤慨」と現地報道!「彼の夢は決して叶わない」
明晰な頭脳と相手を騙す体躯を持ち、荘厳なプレーの賢者であり、去り際も戦略的なトニ・クロースや、カンテラ出身の誇り高きキャプテンにして、マドリーというクラブの奥深さを体現する悲観主義的なDFにして、現時点で5度のCL優勝という金字塔を打ち立てた控えめな男、ナチョにスポットライトを照らしてくれ。
ヴィニシウスの決意、ルカ・モドリッチの威厳、ベリンガムの気品にも。この映画のようなマドリーに光を、もっと光を。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳●下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
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