J1通算出場記録でダントツのトップ! そして記録は更新中。
◇楢崎正剛:1976年4月15日生まれ 奈良県香芝市出身
釜本ら偉大な先達の尽力によって、日本サッカーは着実に発展を遂げたが、80年代になるとアマチュアとしての限界が見え、ここからプロ化へ進んでいった。
そして93年、日本サッカーを劇的に変貌させたJリーグが誕生。ここから始まったプロとしての歴史においては、多くの選手が現われては、去って行った。
楢崎正剛がプロデビューを果たしたのは、Jリーグ創設3年目のこと。横浜フリューゲルスでキャリアをスタートさせた彼は今季、名古屋グランパスで22年目のシーズンを戦っている。
39歳となった不動の守護神。小さい頃から身体が大きかったこともあり、GKをやる機会は多かった。他のポジションも経験したが、中学生の時に「相手のシュートを止めることが楽しいと思うようになった」ことで、守護神としてのキャリアは本格的に始まった。
奈良育英高校時代は、高校選手権で準決勝に進出。後に優勝する市立船橋に敗れたものの、このベスト4入りは快挙といわれた。
Jリーグの4チームからオファーを受け、横浜Fを選んだ楢崎は、1年目から23試合に出場。以降、レギュラーとして年々、GKとしての能力値と評価を高めていったが、98年に所属クラブが消滅(マリノスへの吸収合併)するという悲劇に見舞われる。
天皇杯優勝でクラブの有終の美を飾った後、その去就が注目された楢崎は、名古屋に新天地を求める。ここでもすぐに、不動の守護神に君臨。00年元旦に天皇杯優勝、そして10年には、チームにとっても、自身にとっても念願のリーグ優勝をついに果たした。
展開を読む力に優れ、派手なセービングなしに相手のシュートを止めることができる安定感抜群のGKは、怪我にも強く、毎シーズン、多くの試合でゴールマウスに立ち続けた結果、12年11月にJ1通算500試合出場を達成(史上2人目)し、13年5月には最多記録を更新した。
もちろん、この偉大な守護神は日本代表としても、最高レベルの実績を誇っている。
96年に初めてA代表に招集され、98年フランス・ワールドカップで最終メンバー入り(出場なし)。以降、川口能活(現SC相模原)と正GKのポジション争いを展開しながら、02年日韓大会では全4試合でゴールマウスに立った。
ワールドカップ4回(98・02・06・10年)、コンフェデレーションズカップ1回(03)、アジアカップ3回(96・04・07))、コパ・アメリカ1回(99)でメンバー入りし、00年のシドニー五輪ではオーバーエイジ枠で出場を果たしている。
長く活躍した代表チームには、6年前に別れを告げた楢崎。しかし、クラブレベルでは今なお不動の守護神であり、39歳になってなお、厚い信頼を周囲から集めている。
今季、6節終了時点でのJ1通算出場数は610。もちろん、ダントツの首位であり、彼が今後、どこまでこの数字を伸ばしていくかは、リーグの大きな興味でもある。
釜本ら偉大な先達の尽力によって、日本サッカーは着実に発展を遂げたが、80年代になるとアマチュアとしての限界が見え、ここからプロ化へ進んでいった。
そして93年、日本サッカーを劇的に変貌させたJリーグが誕生。ここから始まったプロとしての歴史においては、多くの選手が現われては、去って行った。
楢崎正剛がプロデビューを果たしたのは、Jリーグ創設3年目のこと。横浜フリューゲルスでキャリアをスタートさせた彼は今季、名古屋グランパスで22年目のシーズンを戦っている。
39歳となった不動の守護神。小さい頃から身体が大きかったこともあり、GKをやる機会は多かった。他のポジションも経験したが、中学生の時に「相手のシュートを止めることが楽しいと思うようになった」ことで、守護神としてのキャリアは本格的に始まった。
奈良育英高校時代は、高校選手権で準決勝に進出。後に優勝する市立船橋に敗れたものの、このベスト4入りは快挙といわれた。
Jリーグの4チームからオファーを受け、横浜Fを選んだ楢崎は、1年目から23試合に出場。以降、レギュラーとして年々、GKとしての能力値と評価を高めていったが、98年に所属クラブが消滅(マリノスへの吸収合併)するという悲劇に見舞われる。
天皇杯優勝でクラブの有終の美を飾った後、その去就が注目された楢崎は、名古屋に新天地を求める。ここでもすぐに、不動の守護神に君臨。00年元旦に天皇杯優勝、そして10年には、チームにとっても、自身にとっても念願のリーグ優勝をついに果たした。
展開を読む力に優れ、派手なセービングなしに相手のシュートを止めることができる安定感抜群のGKは、怪我にも強く、毎シーズン、多くの試合でゴールマウスに立ち続けた結果、12年11月にJ1通算500試合出場を達成(史上2人目)し、13年5月には最多記録を更新した。
もちろん、この偉大な守護神は日本代表としても、最高レベルの実績を誇っている。
96年に初めてA代表に招集され、98年フランス・ワールドカップで最終メンバー入り(出場なし)。以降、川口能活(現SC相模原)と正GKのポジション争いを展開しながら、02年日韓大会では全4試合でゴールマウスに立った。
ワールドカップ4回(98・02・06・10年)、コンフェデレーションズカップ1回(03)、アジアカップ3回(96・04・07))、コパ・アメリカ1回(99)でメンバー入りし、00年のシドニー五輪ではオーバーエイジ枠で出場を果たしている。
長く活躍した代表チームには、6年前に別れを告げた楢崎。しかし、クラブレベルでは今なお不動の守護神であり、39歳になってなお、厚い信頼を周囲から集めている。
今季、6節終了時点でのJ1通算出場数は610。もちろん、ダントツの首位であり、彼が今後、どこまでこの数字を伸ばしていくかは、リーグの大きな興味でもある。