紅白戦でジョルジーニョにカニ挟みを食らって歩行困難に…
鹿島での忘れ得ぬ思い出は試合にまつわることではなく、チーム間に燃え盛る激しい競争意欲だった。
「紅白戦は控え組がポジションを取るためのアピールの場なので、バチバチの削り合い、怒鳴り合いですよ。主力組に厳しくぶつかると反則を取られるが、控え組がチャージされても流されてしまう。そこをかいくぐって勝たないといけない戦いでしたが、これこそ鹿島が強かった大きな要因だと思います」
紅白戦で控え組の熊谷浩二が、ジョルジーニョの股間を抜いて阿部にパスを通した。プライドを傷つけられたジョルジーニョは阿部にカニ挟みを食らわせる。ねん挫で歩行困難となって担架で運ばれた。
こういった経験を積んできただけに、浦和に来て最初に感じたことがチームの雰囲気が緩くて甘い、ということだった。2001年に磐田から移籍してきた井原正巳も、同じ感想を口にしたことがある。
J2では主に左の2列目を任され、終盤戦は石井俊也とボランチを組んで中列後方から攻撃の舵を取った。水戸ホーリーホックとの開幕戦でいきなり決勝点を挙げ、第15節のサガン鳥栖戦では人生初のハットトリックを達成。内訳はFK、右足シュート、PKだ。1年目は28試合で7得点という戦績だった。
J1に復帰した01年はボランチに定着。前半戦は石井と、後半戦は鈴木啓太とコンビを組み、リーグ戦23試合に出場。しかしハンス・オフト監督が就任した02年は戦力として認めてもらえず、4試合(先発1)に出場しただけで、第2ステージから仙台に職場を変えた。
「戦い方が根本的に変わり、1対1で負けないやり方になった。僕はそういうサッカーには馴染めなかったので必要なかったということ。でも浦和が強くなっていく過程で、ここの分岐点は大切だったと思う」
仙台では移籍直後から先発し、2年目の第1ステージも主力として活躍したが、第2ステージに入ると出場数が激減。新潟とJ2川崎フロンターレからオファーがあり、04年は新潟に移籍したが、相次ぐ怪我でリーグ戦には一度も出られなかった。
「紅白戦は控え組がポジションを取るためのアピールの場なので、バチバチの削り合い、怒鳴り合いですよ。主力組に厳しくぶつかると反則を取られるが、控え組がチャージされても流されてしまう。そこをかいくぐって勝たないといけない戦いでしたが、これこそ鹿島が強かった大きな要因だと思います」
紅白戦で控え組の熊谷浩二が、ジョルジーニョの股間を抜いて阿部にパスを通した。プライドを傷つけられたジョルジーニョは阿部にカニ挟みを食らわせる。ねん挫で歩行困難となって担架で運ばれた。
こういった経験を積んできただけに、浦和に来て最初に感じたことがチームの雰囲気が緩くて甘い、ということだった。2001年に磐田から移籍してきた井原正巳も、同じ感想を口にしたことがある。
J2では主に左の2列目を任され、終盤戦は石井俊也とボランチを組んで中列後方から攻撃の舵を取った。水戸ホーリーホックとの開幕戦でいきなり決勝点を挙げ、第15節のサガン鳥栖戦では人生初のハットトリックを達成。内訳はFK、右足シュート、PKだ。1年目は28試合で7得点という戦績だった。
J1に復帰した01年はボランチに定着。前半戦は石井と、後半戦は鈴木啓太とコンビを組み、リーグ戦23試合に出場。しかしハンス・オフト監督が就任した02年は戦力として認めてもらえず、4試合(先発1)に出場しただけで、第2ステージから仙台に職場を変えた。
「戦い方が根本的に変わり、1対1で負けないやり方になった。僕はそういうサッカーには馴染めなかったので必要なかったということ。でも浦和が強くなっていく過程で、ここの分岐点は大切だったと思う」
仙台では移籍直後から先発し、2年目の第1ステージも主力として活躍したが、第2ステージに入ると出場数が激減。新潟とJ2川崎フロンターレからオファーがあり、04年は新潟に移籍したが、相次ぐ怪我でリーグ戦には一度も出られなかった。
移籍先が見つからなかった05年、鹿島から思わぬ誘いがあり古巣へと復帰。練習生からプロ契約を交わし、途中出場ながら8試合を戦った。鹿島で過ごしたキャリアの最終シーズン、模範的なプロとは言い難い自分にはっとしたそうだ。
心拍数がある数値に下がったら走り出す練習で本多や小笠原、鈴木隆行らは下がる前にスタートした。「でも僕は下がるまで待っていた。彼らを見ていたら自分は悪いほうに行っちゃったなって感じたんです。身体のケアも甘かった。傷んだ身体をケアし栄養管理もしっかりやるべきだったのにできなかった」と正直に言った。
阿部はまだ引退を表明していない。浦和時代からやり切った自負がなく、「辞めたくない気持ちがどこかにあるのかもしれない」と明かした。
心拍数がある数値に下がったら走り出す練習で本多や小笠原、鈴木隆行らは下がる前にスタートした。「でも僕は下がるまで待っていた。彼らを見ていたら自分は悪いほうに行っちゃったなって感じたんです。身体のケアも甘かった。傷んだ身体をケアし栄養管理もしっかりやるべきだったのにできなかった」と正直に言った。
阿部はまだ引退を表明していない。浦和時代からやり切った自負がなく、「辞めたくない気持ちがどこかにあるのかもしれない」と明かした。