大阪から静岡へ。「背番号15の小野さんと一緒にやりたくて」
将来を嘱望された池田学だが、浦和レッズで4年、湘南ベルマーレで2年とプロのキャリアはわずか6年で終わった。24歳で引退し、2つの大手不動産販売会社に14年間勤務。2019年にサッカー界に舞い戻ってスクールを開校すると、翌年から古巣・浦和のハートフルクラブで、こころを育む指導に情熱を傾けている。
愛称ロボ。生まれ育った大阪府茨木市のTom FCに通い始めた小学4年生の時、すねを強打したが痛みに耐えながらプレーを続行。ロボットのようなぎこちない動きから、ロボというあだ名が付いた。41歳となった今でもロボと呼ばれ、自身のブログ名は『ロボ日記』で、現在休校中の個別指導校は『ロボサッカースクール』と命名した。
ガンバ大阪ジュニアユースに所属。同期に大黒将志、ひとつ上には稲本潤一や橋本英郎らがいた。池田はそのままユースに進む予定だったが、中学3年の1995年9月3日に突然進路先を変えた。
その日は高校チームとクラブチームが争う唯一の大会、第6回全日本ユース選手権決勝があり、静岡・清水商高(現清水桜が丘高)と横浜マリノスユース(現横浜F・マリノスユース)が顔を合わせた。池田はNHK教育テレビで生放送された試合をたまたま観戦。自分も同じピッチにいることを想定し、「ここに出されたら嫌だな、という急所に何本も出してくる人がいたんです。それが背番号15の小野さんで、この人と一緒にやりたくて」と26年前ほど前を思い起こした。
小野さんとは北海道コンサドーレ札幌で現役を続ける小野伸二。1年生にして清水商高の主力だった。
そこでG大阪ジュニアユースの平野直樹監督(現履正社高監督)に相談すると、「そういう人を見つけたのなら挑戦してみなさい」と言われ、父親には清水商高・大滝雅良監督宛ての手紙を書いてもらった。
希望通り屈指の名門校に入学し、あこがれの小野と同じ下宿先で生活したが、発するオーラに圧倒され1度も話し掛けられなかったそうだ。それでも全体練習後、「一番抜きにくい」との理由で小野から1対1の居残り練習の相手に指名された。
「パス練習だけでも小野さんの人柄や性格が分かりました。右に蹴ったり左に来たり、逆回転のボールなどいろいろ考えて蹴っていました。優しくて柔らかいボールでした」
愛称ロボ。生まれ育った大阪府茨木市のTom FCに通い始めた小学4年生の時、すねを強打したが痛みに耐えながらプレーを続行。ロボットのようなぎこちない動きから、ロボというあだ名が付いた。41歳となった今でもロボと呼ばれ、自身のブログ名は『ロボ日記』で、現在休校中の個別指導校は『ロボサッカースクール』と命名した。
ガンバ大阪ジュニアユースに所属。同期に大黒将志、ひとつ上には稲本潤一や橋本英郎らがいた。池田はそのままユースに進む予定だったが、中学3年の1995年9月3日に突然進路先を変えた。
その日は高校チームとクラブチームが争う唯一の大会、第6回全日本ユース選手権決勝があり、静岡・清水商高(現清水桜が丘高)と横浜マリノスユース(現横浜F・マリノスユース)が顔を合わせた。池田はNHK教育テレビで生放送された試合をたまたま観戦。自分も同じピッチにいることを想定し、「ここに出されたら嫌だな、という急所に何本も出してくる人がいたんです。それが背番号15の小野さんで、この人と一緒にやりたくて」と26年前ほど前を思い起こした。
小野さんとは北海道コンサドーレ札幌で現役を続ける小野伸二。1年生にして清水商高の主力だった。
そこでG大阪ジュニアユースの平野直樹監督(現履正社高監督)に相談すると、「そういう人を見つけたのなら挑戦してみなさい」と言われ、父親には清水商高・大滝雅良監督宛ての手紙を書いてもらった。
希望通り屈指の名門校に入学し、あこがれの小野と同じ下宿先で生活したが、発するオーラに圧倒され1度も話し掛けられなかったそうだ。それでも全体練習後、「一番抜きにくい」との理由で小野から1対1の居残り練習の相手に指名された。
「パス練習だけでも小野さんの人柄や性格が分かりました。右に蹴ったり左に来たり、逆回転のボールなどいろいろ考えて蹴っていました。優しくて柔らかいボールでした」
池田は2年生の秋から激しい腰痛に苦しみ、主将を任された3年生の春には1か月間リハビリ入院。それでも痛みは引かず、チームに合流したのは第77回全国高校選手権・静岡県予選が開幕した初秋からだ。プロは難しいと考えていたら、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)入りを打診される。神奈川・桐蔭学園高を強化した李国秀元監督が、臨時コーチとして当時の清水商高を指導。李コーチは池田が卒業する99年、V川崎の総監督就任が内定していた。
遅れて浦和からも声が掛かり、1年前に加入した小野に「ロボ、また一緒にやろう」と背中を押されては浦和を選択しない理由がない。かくして池田はプロの世界でも、君子と慕う小野の同僚となって戦った。
1999年3月6日、池田は浦和駒場スタジアムで行なわれたG大阪とのリーグ開幕戦に先発し、イタリア人のザッペッラとCBを形成。原博実監督は「高校出の新人を中央で使うのは勇気がいったが、速さと強さを発揮してくれた。合格点」と評した。
ユースからフル代表まで3つのカテゴリーで指揮を執っていたフィリップ・トルシエ監督が3月15日、池田をワールドユース(現U-20ワールドカップ)に臨む日本代表候補に加えた。しかしナイジェリア入国にはマラリアや黄熱、肝炎など複数の予防接種が必要なため、4月3日の大会開幕には間に合わず、メンバー入りは見送られた。
それから池田はトルシエ監督のお気に入りとなり、99年5月にシドニー五輪日本代表候補、01年9月には日本代表候補にも選ばれた。