30歳のこの夏に地元のオックスフォードへ
チェルシーの下部組織に入ったのは7歳のとき。15歳でトップチームの練習に呼ばれるなど、常に同世代のトップランナーだった。16~17歳の09-10シーズンにはユースチームを牽引して50年ぶりとなるFAユースカップ優勝をチェルシーにもたらした。
アンチェロッティのもとでプロデビューを果たしたのは10年9月15日。チャンピオンズリーグのMSKジリナ戦だった。その10日後のマンチェスター・シティ戦でプレミアリーグにデビューした。この10-11シーズンは公式戦17試合に出場し、クラブの最優秀ヤングプレーヤー賞に輝いている。
未来は、約束されてはいなかった。無冠に終わったアンチェロッティが解任され、立場は一変した。後任のアンドレ・ヴィラス・ボアス監督は、同胞のラウール・メイレレスを獲得して重用し、中盤の底の司令塔にはバルセロナBから引き抜いたオリオル・ロメウを優先的に起用した。最大の理解者であるアンチェロッティを失うのは、身を切られるようだったと言う。再びジ・アスレティックからの引用だ。
「とてもショックで、ひどく打ちのめされたよ。もしカルロ(アンチェロッティ監督)が次のシーズンも残っていてくれたら、もっと試合に出られただろう。若手にとって監督の信頼こそすべてなんだ。とくにチェルシーのようなクラブではね」
アンチェロッティのもとでプロデビューを果たしたのは10年9月15日。チャンピオンズリーグのMSKジリナ戦だった。その10日後のマンチェスター・シティ戦でプレミアリーグにデビューした。この10-11シーズンは公式戦17試合に出場し、クラブの最優秀ヤングプレーヤー賞に輝いている。
未来は、約束されてはいなかった。無冠に終わったアンチェロッティが解任され、立場は一変した。後任のアンドレ・ヴィラス・ボアス監督は、同胞のラウール・メイレレスを獲得して重用し、中盤の底の司令塔にはバルセロナBから引き抜いたオリオル・ロメウを優先的に起用した。最大の理解者であるアンチェロッティを失うのは、身を切られるようだったと言う。再びジ・アスレティックからの引用だ。
「とてもショックで、ひどく打ちのめされたよ。もしカルロ(アンチェロッティ監督)が次のシーズンも残っていてくれたら、もっと試合に出られただろう。若手にとって監督の信頼こそすべてなんだ。とくにチェルシーのようなクラブではね」
居場所が失われ、レンタル生活が始まった。スウォンジーにミドルスブラ、ワトフォードにウィガン。12年1月からの2シーズン半で4チームを渡り歩き、14-15シーズンは初めて国外に出て、オランダのフィテッセでプレーした。R・マドリーの話を断ったとき、こんな未来は予想できなかった。移籍していたら、サッカー人生はまた違う方向に進んでいたかもしれない。
さらに運命の皮肉が、スウォンジーへのレンタルを決めたその直後に、ヴィラス・ボアスが成績不振で解任されたことだ。あるいは残っていれば──。
チェルシーでのキャリアが閉ざされたのは、フィテッセから戻った15年の夏だった。ジ・アスレティックに語った顛末がこうだ。
「チームに合流したその日だった。あの夏はプレシーズンのアメリカツアーが予定されていて、そのことを考えながらロッカールームに入っていくと、どこにも自分の荷物がないんだ。事情を教えてくれたのは用具係だった。“なんだ、聞いてないのかい? 君はレンタルだよ”って。ああ、もう終わりだってそう悟ったよ」
ブレントフォードからのオファーを受け入れ、完全移籍を決めた。結果的に引導を渡したのがジョゼ・モウリーニョ監督だった。これも皮肉なのは、17歳のマクイクランの獲得に乗り出した当時のR・マドリーの監督がモウリーニョだったことだ。
流転のキャリアは、ブレントフォードからバーミンガム、MKドンズと続き、契約満了でMKドンズを退団した30歳のこの夏、オックスフォードに新天地を求めた。大学で有名なオックスフォードは生まれ育った地元だ。二つ返事で加入を決めた。
17歳のあの夏、もし――。
文●松野敏史
※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年7月20日号より転載
さらに運命の皮肉が、スウォンジーへのレンタルを決めたその直後に、ヴィラス・ボアスが成績不振で解任されたことだ。あるいは残っていれば──。
チェルシーでのキャリアが閉ざされたのは、フィテッセから戻った15年の夏だった。ジ・アスレティックに語った顛末がこうだ。
「チームに合流したその日だった。あの夏はプレシーズンのアメリカツアーが予定されていて、そのことを考えながらロッカールームに入っていくと、どこにも自分の荷物がないんだ。事情を教えてくれたのは用具係だった。“なんだ、聞いてないのかい? 君はレンタルだよ”って。ああ、もう終わりだってそう悟ったよ」
ブレントフォードからのオファーを受け入れ、完全移籍を決めた。結果的に引導を渡したのがジョゼ・モウリーニョ監督だった。これも皮肉なのは、17歳のマクイクランの獲得に乗り出した当時のR・マドリーの監督がモウリーニョだったことだ。
流転のキャリアは、ブレントフォードからバーミンガム、MKドンズと続き、契約満了でMKドンズを退団した30歳のこの夏、オックスフォードに新天地を求めた。大学で有名なオックスフォードは生まれ育った地元だ。二つ返事で加入を決めた。
17歳のあの夏、もし――。
文●松野敏史
※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年7月20日号より転載