黄金期を作り上げたバブル崩壊後の積極補強
――初のリーグ制覇は満さんが強化部の責任者になった96年でした。
「クラブに携わる人間の意識改革やスキルアップもありましたし、クラブや社長の経営判断、戦略が大きかったです。開幕当初はヴェルディとマリノスの2強と言われていて、人気もありました。スカウト活動をするうえでも、その2チームと競合すると選手が獲得できないという状況が続きました。まずは彼らに追いつき、追い越さなければならないと考えていました」
――どんな経営判断があったのでしょうか?
「93年のJリーグ発足当初は、世の中もバブルで、どこのチームも満員で何もしなくてもスタジアムが一杯になっていました。ところが、バブルがはじけて、親会社や責任企業の経営が思わしくなくなった95年あたりから、Jリーグも企業経営の縮小路線の影響を受けるようになりました。
しかし、鹿島では2強に追いつくためにも勝たなければいけないと、苦しいなかでも、ジョルジーニョやレオナルド、ビスマルクら助っ人を獲得して、本気で1番を目ざしました」
――世の中が躊躇してブレーキを踏んでいるなかで、アクセル全開で突き進んで行ったわけですね。
「ほかにも、2002年のワールドカップが日本で開催されると決まり、カシマスタジアムへのワールドカップの誘致を狙いました。ワールドカップの会場になれば、1万5千人規模のスタジアムが4万人以上の規模に拡大できる目途もありました。
当時は1万5千人規模のスタジアムがいつも満員で、ハガキで応募すると倍率80倍ほどのプレミアチケットになっていて、スタジアムが大きくなれば、それだけ集客も見込めると。だから、当時はここで無理しても、勝てばスタジアムが大きくなって、経営的にも、もっと大きくなれるという判断に踏み切りました」
――自治体の協力を得るなど、地域と一体化し、街とともに発展してきた歴史でもありますよね。
「Jリーグ発足当初のホームタウンは、まだ鹿島町で人口4万5千人くらい(1995年9月に大野村を編入して鹿嶋市へ。合併直前、94年の鹿島町の人口は4万6035人)。あの頃はそんなに人が出歩いていないような土地でした。当時のメディアには、暴走族がスタジアムに応援に来て、町から暴走族が減ったとか、いろんな記事がありました。
そういうこともあったのだと思います。そんな町も、アントラーズができて、活躍し始めたことで、世の中に認知されるようになりました。それまで日本国内で“鹿島”を知る人はほとんどいなかったのに、どこへ行ってもアントラーズの“鹿島“と言われるほど知れ渡りました。みんな自信を持てたというか、住民たちの意識も変化したように感じます」
――タイトルを取った影響が大きかったのでしょうか?
「やっぱり勝ったからですよね。Jリーグがスタートした頃はチーム力やホームタウンの基盤も弱く、正直いつまで持つのかなという危機感もありました。だから勝たなければチームが存続できないと、必死でした」
――切実さがピッチ上にも出ていたのでしょうか?
「そうですね。そういう必死さ、危機感を持って取り組んだことが結果につながったのでしょう」
「クラブに携わる人間の意識改革やスキルアップもありましたし、クラブや社長の経営判断、戦略が大きかったです。開幕当初はヴェルディとマリノスの2強と言われていて、人気もありました。スカウト活動をするうえでも、その2チームと競合すると選手が獲得できないという状況が続きました。まずは彼らに追いつき、追い越さなければならないと考えていました」
――どんな経営判断があったのでしょうか?
「93年のJリーグ発足当初は、世の中もバブルで、どこのチームも満員で何もしなくてもスタジアムが一杯になっていました。ところが、バブルがはじけて、親会社や責任企業の経営が思わしくなくなった95年あたりから、Jリーグも企業経営の縮小路線の影響を受けるようになりました。
しかし、鹿島では2強に追いつくためにも勝たなければいけないと、苦しいなかでも、ジョルジーニョやレオナルド、ビスマルクら助っ人を獲得して、本気で1番を目ざしました」
――世の中が躊躇してブレーキを踏んでいるなかで、アクセル全開で突き進んで行ったわけですね。
「ほかにも、2002年のワールドカップが日本で開催されると決まり、カシマスタジアムへのワールドカップの誘致を狙いました。ワールドカップの会場になれば、1万5千人規模のスタジアムが4万人以上の規模に拡大できる目途もありました。
当時は1万5千人規模のスタジアムがいつも満員で、ハガキで応募すると倍率80倍ほどのプレミアチケットになっていて、スタジアムが大きくなれば、それだけ集客も見込めると。だから、当時はここで無理しても、勝てばスタジアムが大きくなって、経営的にも、もっと大きくなれるという判断に踏み切りました」
――自治体の協力を得るなど、地域と一体化し、街とともに発展してきた歴史でもありますよね。
「Jリーグ発足当初のホームタウンは、まだ鹿島町で人口4万5千人くらい(1995年9月に大野村を編入して鹿嶋市へ。合併直前、94年の鹿島町の人口は4万6035人)。あの頃はそんなに人が出歩いていないような土地でした。当時のメディアには、暴走族がスタジアムに応援に来て、町から暴走族が減ったとか、いろんな記事がありました。
そういうこともあったのだと思います。そんな町も、アントラーズができて、活躍し始めたことで、世の中に認知されるようになりました。それまで日本国内で“鹿島”を知る人はほとんどいなかったのに、どこへ行ってもアントラーズの“鹿島“と言われるほど知れ渡りました。みんな自信を持てたというか、住民たちの意識も変化したように感じます」
――タイトルを取った影響が大きかったのでしょうか?
「やっぱり勝ったからですよね。Jリーグがスタートした頃はチーム力やホームタウンの基盤も弱く、正直いつまで持つのかなという危機感もありました。だから勝たなければチームが存続できないと、必死でした」
――切実さがピッチ上にも出ていたのでしょうか?
「そうですね。そういう必死さ、危機感を持って取り組んだことが結果につながったのでしょう」
――初優勝から2000年代初頭まで、次々とタイトルを獲得しました。
「96年に初タイトルを獲ると、他クラブと競合しても選手を獲得できるようになりました。96年に柳沢(敦)が入ってくれて、98年には本山(雅志)、小笠原(満男)、中田(浩二)、曽ケ端(準)らが加入。スカウトが成功するようになったのは大きかったですね。
チーム編成の大きな流れとしては、90年代は外国籍選手のビッグネームを連れてきて勝った。その遺産や実績を駆使しながら、2000年以降は79年組(小笠原、本山、中田、曽ケ端ら1979年生まれの世代)を筆頭にスカウトで獲得した優秀な日本人選手を育てながら勝利を重ねてきました」
――最も記憶に残っているのは、どの時代のチームでしょうか?
「いろいろありますが、やはり開幕当時でしょうか。打倒ヴェルディで、直接対決は他のゲームよりもさらに力を発揮するようなチームでした。その後は、ジュビロとの2強時代があって、次はレッズがライバルに。今はフロンターレですね。フロンターレには全然勝てていませんから、打倒フロンターレに燃えてます」
――思い出深い選手は?
「やはり、一番はジーコですね。クラブ全体の礎を築いてくれました。それと、僕が30年ほどチームに関わってきているなかで、やっぱり小笠原も特別な選手です」
――どんなところが特別だったのでしょう?
「小笠原よりも上手い選手はチーム内でもいました。例えば同期の本山は、小笠原よりも上手かったですよ。でも、チームを勝たせる力というか、そんな存在感は小笠原が抜群でした。彼は個人で17タイトルに関わっていて、彼がいたからタイトルが獲れたとも言えますよね」
「96年に初タイトルを獲ると、他クラブと競合しても選手を獲得できるようになりました。96年に柳沢(敦)が入ってくれて、98年には本山(雅志)、小笠原(満男)、中田(浩二)、曽ケ端(準)らが加入。スカウトが成功するようになったのは大きかったですね。
チーム編成の大きな流れとしては、90年代は外国籍選手のビッグネームを連れてきて勝った。その遺産や実績を駆使しながら、2000年以降は79年組(小笠原、本山、中田、曽ケ端ら1979年生まれの世代)を筆頭にスカウトで獲得した優秀な日本人選手を育てながら勝利を重ねてきました」
――最も記憶に残っているのは、どの時代のチームでしょうか?
「いろいろありますが、やはり開幕当時でしょうか。打倒ヴェルディで、直接対決は他のゲームよりもさらに力を発揮するようなチームでした。その後は、ジュビロとの2強時代があって、次はレッズがライバルに。今はフロンターレですね。フロンターレには全然勝てていませんから、打倒フロンターレに燃えてます」
――思い出深い選手は?
「やはり、一番はジーコですね。クラブ全体の礎を築いてくれました。それと、僕が30年ほどチームに関わってきているなかで、やっぱり小笠原も特別な選手です」
――どんなところが特別だったのでしょう?
「小笠原よりも上手い選手はチーム内でもいました。例えば同期の本山は、小笠原よりも上手かったですよ。でも、チームを勝たせる力というか、そんな存在感は小笠原が抜群でした。彼は個人で17タイトルに関わっていて、彼がいたからタイトルが獲れたとも言えますよね」