あらためて回顧する、23年前に駒場で起きたあの“出来事”
浦和に在籍した4年間で池田がもっともクローズアップされたのが、99年11月27日のサンフレッチェ広島とのリーグ最終戦だ。
この年からJ2もスタートし、J1下位2チームがJ2へ自動降格。不振にあえぐ浦和は最終節まで残留を争い、広島に90分で勝つしかない崖っぷちに立たされていた。当時は90分で決着しない場合、Vゴール方式の延長戦を行なう規定だった。
試合は0-0で終了し、降格が決まった。浦和駒場スタジアムに集まった2万42人の観衆は、延長戦に臨む意味がないことを承知していたが、池田だけは知らなかった。
延長後半1分、浦和はエース福田正博の得点でVゴール勝ち。次の瞬間、喜色満面の池田がうなだれる福田に抱き着くと、ぶ然とした表情の福田は池田の両腕を払いのけた。
「ア・デモス監督からは勝てばいいと言われていたので、福田さんの得点の時も自分が決めてヒーローになるつもりでゴール前に上がったんです。90分が終わり何となく変な雰囲気でしたが、とにかく勝つことしか考えていなかったので延長に入る前、『さあ行こうぜ』と(ゼリコ・)ペトロビッチのお尻をたたいた。彼にはプロフェッショナルと映った半面、この状況でもまだ頑張るのかと呆れたのでは。ただ何も知らなかった自分は勝ちたい一心でした」
高卒の新人としては97年の田畑昭宏と永井雄一郎、98年の小野に続き、クラブ史上4人目となる開幕戦に先発。ユースと五輪で日本代表候補に選ばれるなど、池田の未来は前途洋々に思えたのだが……。
この年からJ2もスタートし、J1下位2チームがJ2へ自動降格。不振にあえぐ浦和は最終節まで残留を争い、広島に90分で勝つしかない崖っぷちに立たされていた。当時は90分で決着しない場合、Vゴール方式の延長戦を行なう規定だった。
試合は0-0で終了し、降格が決まった。浦和駒場スタジアムに集まった2万42人の観衆は、延長戦に臨む意味がないことを承知していたが、池田だけは知らなかった。
延長後半1分、浦和はエース福田正博の得点でVゴール勝ち。次の瞬間、喜色満面の池田がうなだれる福田に抱き着くと、ぶ然とした表情の福田は池田の両腕を払いのけた。
「ア・デモス監督からは勝てばいいと言われていたので、福田さんの得点の時も自分が決めてヒーローになるつもりでゴール前に上がったんです。90分が終わり何となく変な雰囲気でしたが、とにかく勝つことしか考えていなかったので延長に入る前、『さあ行こうぜ』と(ゼリコ・)ペトロビッチのお尻をたたいた。彼にはプロフェッショナルと映った半面、この状況でもまだ頑張るのかと呆れたのでは。ただ何も知らなかった自分は勝ちたい一心でした」
高卒の新人としては97年の田畑昭宏と永井雄一郎、98年の小野に続き、クラブ史上4人目となる開幕戦に先発。ユースと五輪で日本代表候補に選ばれるなど、池田の未来は前途洋々に思えたのだが……。
2年目は右太もも裏の肉離れなどでベンチ入りすらなく、J1に復帰した3年目は公式戦20試合に出場したが、02年も筋肉系の怪我が重なって一度もピッチに立てなかった。
J2湘南に完全移籍した03年は、7月に入ってレギュラーとなったものの、終盤には左けい骨疲労骨折で手術。この影響もあって翌年の出場時間は3分だけだ。オペ後も痛みが残り、左足で思いっ切り跳べずにヘディングの打点が低くなった。
持ち味のひとつを失ったことで、現役に見切りをつける。J1リーグ30試合、J2で14試合というのが池田の出場記録だ。「今だからいい経験をさせてもらったと言えますが、当時は歯がゆくて仕方なかった。痛い、きつい、熱があるとか弱音を一度も吐かなかった鉄人の小野さんを高校時代に見ているので、多少のことでは動じませんが、怪我が多くて何もできないことだけが辛かった」と6年間のプロ生活を振り返った。