アヤックスで才能を示し、ミランでスーパースターに昇り詰めた。

抜け目ないシュート、力強いシュート、アクロバティックなシュート……。ストライカーとしてあらゆる顔を持っていた。サッカー界は進歩し続けているが、今なお、歴代最高の点取り屋の呼び声が高い。 (C) Getty Images
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
今回登場するのは、恵まれた身体能力、高い技術、そして鋭い得点嗅覚を活かし、あらゆるシチュエーションでゴールを量産した稀代のストライカー、マルコ・ファン・バステンだ。
クラブ、代表で多くの栄光を手にしながらも、一方で悲運も味わった天才。引退後は指導者としても活躍した偉大なるオランダ人の輝かしき足跡を、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
マルコ・ファン・バステンは、1964年10月31日、オランダ第4の都市であるユトレヒトに生を受けた。
6歳の時に地元のクラブ、EDOに入団し、そこからUVVユトレヒト、エリンベイクといったクラブで少年時代を過ごしたマルコ少年。父ヨープのサポートを受けながら、ぐんぐんと才能を伸ばしていった。
キャリアを通して彼を苦しめることになる怪我が、この頃から彼に襲いかかったが、親子でこの窮地を乗り越え、81年には名門アヤックスとプロ契約をかわす。
まだ完全なトップチームの選手ではなかった17歳の少年は82年4月3日、NEC戦でデビュー。憧れのヨハン・クライフに代わってピッチに立つと、彼は早くもゴールを決めてみせた。
1年目はこの1試合のみの出場に終わったが、2年目は20試合9得点を記録するなど早くも主力に昇り詰めてチームのリーグ連覇に貢献し、3連覇を果たした83-84シーズンには26試合28得点で初のリーグ得点王に輝いた。
ここから4年連続で得点王に輝くという離れ業を成し遂げたファン・バステン。85-86シーズンには37得点を記録し、欧州だけでなく世界で最も多くゴールを挙げた選手となった。
188センチの長身でありながら、身のこなしは軽やかで、足元の技術は一級品。脚力もあり、空中戦に強く、自らFKも狙える彼は、天性の得点嗅覚にも恵まれ、どんなシチュエーションでもゴールネットを揺らすことができた。
その才能に85年からアヤックスの監督に就任したクライフは惚れ込み、またファン・バステンも「(クライフは)父であり、兄でもある」と語るなど、2人は相思相愛の関係となり、この師弟コンビでKNVBカップ2回、そしてカップウィナーズ・カップを勝ち取った。
偉大なストライカーとなったファン・バステンには、当然ながら他国のビッグクラブから多くの引き合いがあり、86年にはバルセロナがルート・フリットとのセットで獲得を狙ったものの実現せず、翌年、イタリアのミランがこのオランダ・コンビを迎え入れた。
シルビオ・ベルルスコーニ政権2年目のミランは、世界一のクラブを目指して本格的にチーム強化を図ったが、その目玉がフリットとファン・バステンだった。
加入初年度から圧倒的な存在感を示してセリエA制覇に大貢献したフリットに対し、ファン・バステンは膝の負傷などで11試合の出場(3得点)に止まったが、88-89シーズンから天才ストライカーの快進撃は始まった。
このシーズン、セリエAでは19ゴールを挙げた他、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)では9試合で9得点。カンプ・ノウに8万人ものミラニスタが詰めかけた決勝のステアウア・ブカレスト戦では、フリットとともに2ゴールを挙げて、自身初の欧州制覇を果たした。
翌89-90シーズンもセリエAで19ゴールを挙げ、これでリーグ得点王に輝いたファン・バステンは、チームが無敗優勝を成し遂げた91-92シーズンにも25得点を記録して、再びイタリアでのトップスコアラーのタイトルを手にした。
89年から2連続で、欧州王者としてトヨタカップへ出場するために来日。2試合とも自身のゴールはなかったが、オリンピア戦(90年)での巧みなループシュート(ポストをヒット)など、数々の妙技を披露して国立競技場の観客を沸かせた。
今回登場するのは、恵まれた身体能力、高い技術、そして鋭い得点嗅覚を活かし、あらゆるシチュエーションでゴールを量産した稀代のストライカー、マルコ・ファン・バステンだ。
クラブ、代表で多くの栄光を手にしながらも、一方で悲運も味わった天才。引退後は指導者としても活躍した偉大なるオランダ人の輝かしき足跡を、ここで振り返ってみよう。
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マルコ・ファン・バステンは、1964年10月31日、オランダ第4の都市であるユトレヒトに生を受けた。
6歳の時に地元のクラブ、EDOに入団し、そこからUVVユトレヒト、エリンベイクといったクラブで少年時代を過ごしたマルコ少年。父ヨープのサポートを受けながら、ぐんぐんと才能を伸ばしていった。
キャリアを通して彼を苦しめることになる怪我が、この頃から彼に襲いかかったが、親子でこの窮地を乗り越え、81年には名門アヤックスとプロ契約をかわす。
まだ完全なトップチームの選手ではなかった17歳の少年は82年4月3日、NEC戦でデビュー。憧れのヨハン・クライフに代わってピッチに立つと、彼は早くもゴールを決めてみせた。
1年目はこの1試合のみの出場に終わったが、2年目は20試合9得点を記録するなど早くも主力に昇り詰めてチームのリーグ連覇に貢献し、3連覇を果たした83-84シーズンには26試合28得点で初のリーグ得点王に輝いた。
ここから4年連続で得点王に輝くという離れ業を成し遂げたファン・バステン。85-86シーズンには37得点を記録し、欧州だけでなく世界で最も多くゴールを挙げた選手となった。
188センチの長身でありながら、身のこなしは軽やかで、足元の技術は一級品。脚力もあり、空中戦に強く、自らFKも狙える彼は、天性の得点嗅覚にも恵まれ、どんなシチュエーションでもゴールネットを揺らすことができた。
その才能に85年からアヤックスの監督に就任したクライフは惚れ込み、またファン・バステンも「(クライフは)父であり、兄でもある」と語るなど、2人は相思相愛の関係となり、この師弟コンビでKNVBカップ2回、そしてカップウィナーズ・カップを勝ち取った。
偉大なストライカーとなったファン・バステンには、当然ながら他国のビッグクラブから多くの引き合いがあり、86年にはバルセロナがルート・フリットとのセットで獲得を狙ったものの実現せず、翌年、イタリアのミランがこのオランダ・コンビを迎え入れた。
シルビオ・ベルルスコーニ政権2年目のミランは、世界一のクラブを目指して本格的にチーム強化を図ったが、その目玉がフリットとファン・バステンだった。
加入初年度から圧倒的な存在感を示してセリエA制覇に大貢献したフリットに対し、ファン・バステンは膝の負傷などで11試合の出場(3得点)に止まったが、88-89シーズンから天才ストライカーの快進撃は始まった。
このシーズン、セリエAでは19ゴールを挙げた他、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)では9試合で9得点。カンプ・ノウに8万人ものミラニスタが詰めかけた決勝のステアウア・ブカレスト戦では、フリットとともに2ゴールを挙げて、自身初の欧州制覇を果たした。
翌89-90シーズンもセリエAで19ゴールを挙げ、これでリーグ得点王に輝いたファン・バステンは、チームが無敗優勝を成し遂げた91-92シーズンにも25得点を記録して、再びイタリアでのトップスコアラーのタイトルを手にした。
89年から2連続で、欧州王者としてトヨタカップへ出場するために来日。2試合とも自身のゴールはなかったが、オリンピア戦(90年)での巧みなループシュート(ポストをヒット)など、数々の妙技を披露して国立競技場の観客を沸かせた。