恩師の下でストライカーとしての才能を開花させたエリート。
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
今回、10月6日発売のワールドサッカーダイジェストWebに登場するのは、クラブレベルではプレミアリーグ得点王4回という最多記録を保持し、フランス代表としては世界と欧州の両方を制した輝かしい経歴を持つ、稀代の点取り屋、ティエリ・アンリだ。
フランスが世界に誇る育成機関によって生み出された最高傑作のひとりといわれる男の偉大なる足跡を、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
1977年8月17日、フランス・パリから南西に25キロほど離れたシャティヨン地区レ・ユリスで、アンリはこの世に生を受けた。
スポーツを勧める父と教育熱心な母によって育てられたアンリに、サッカーの楽しさを教えたのはストリートでのプレー。まるで殴り合いのような荒っぽいゲームのなかで、他の子よりも小さかったティエリ少年は、強さを身につけながら、技術を磨いていった。
サッカーについては非常に厳しい父アントワーヌは、めったに息子を褒めることはなく、そのこともティエリを成長させる要因のひとつともなった。
12歳の時、セミプロのチーム「ヴィリー・シャティヨン」にスカウトされ、すぐにその得点力で多くの勝利をチームにもたらすと、アンリは14歳の誕生日を迎える直前、パリ郊外のクレールフォンテーヌに設立されたINF(国立フットボール学院)の入学試験に合格する。
入学時、技術は荒削りで、戦術理解度なども低かったアンリだが、当時の学院長によれば「サッカーのインテリジェンスが抜群に高かった」ため、飛躍的な成長を遂げていった。
卒業後は、ベルサイユFCでのプレーを経て、以前から目をかけられていたモナコと契約。94年8月31日のニース戦で、アンリのプロキャリアは幕を開けた。
当時のアンリのポジションはウイングであり、自らが点を取るより、FW選手をアシストする方が得意だった。チームの多くの得点に絡んだ彼は、95-96シーズンにリーグの新人王を受賞し、96-97シーズンには早くも初めてのリーグ優勝を経験する。
96年の夏、レアル・マドリーと規則に反するかたちで移籍交渉を行なったことで罰金処分を受けたアンリ。この頃はピッチ上で結果は出す一方で、エリート意識が悪い方向に作用し、チームの和を乱したり、監督ジャン・ティガナに歯向かったりと、問題児の側面もたびたび顔を出した。
そして99年1月、アンリはついにモナコを離れ、国外での挑戦に踏み切る。行き先は、前シーズンのチャンピオンズ・リーグ(CL)で彼と対戦し、その力を認めていたユベントスだった。
意気揚々とイタリアに乗り込んだ21歳の青年を待っていたのは、「守備の負担が大き過ぎた」(本人談)カルチョの厳しい洗礼と、名門クラブゆえの厳格なムード。そのどちらにも馴染めなかったアンリは、力を発揮できず、わずか3ゴールを挙げるに止まった。
すっかり調子を落としていた彼に、イングランドから救いの手が差し伸べられた。救世主は、モナコ時代にアンリをトップチームに引き上げ、その後、名古屋グランパスを経て、アーセナルで指揮を執っていたアーセン・ヴェンゲルだった。
99年夏、「自分の良さを熟知し、自由にプレーさせてくれる」恩師の下でプレーを始めたアンリは、凄まじいキャリアの上昇曲線を描き始める。理想とするアタッキングサッカーの柱にアンリを置き、彼をウイングからCFにコンバートしたヴェンゲルの判断は正しかった。
2シーズン連続で2ケタ得点を記録した後、2001-02シーズンには24ゴールを挙げてプレミアリーグの得点王に輝くとともに、チームに4シーズンぶりのリーグタイトルをもたらしたことで、アンリはクラブ史に語り継がれる英雄のひとりに昇り詰めた。
03-04シーズンには30得点の大台に達して欧州の得点王にもなった彼は、同シーズンに2度目のプレミア制覇に貢献。続く2シーズンでも25得点、27得点とゴールを量産し、トップスコアラーの座を守り続けた。
今回、10月6日発売のワールドサッカーダイジェストWebに登場するのは、クラブレベルではプレミアリーグ得点王4回という最多記録を保持し、フランス代表としては世界と欧州の両方を制した輝かしい経歴を持つ、稀代の点取り屋、ティエリ・アンリだ。
フランスが世界に誇る育成機関によって生み出された最高傑作のひとりといわれる男の偉大なる足跡を、ここで振り返ってみよう。
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1977年8月17日、フランス・パリから南西に25キロほど離れたシャティヨン地区レ・ユリスで、アンリはこの世に生を受けた。
スポーツを勧める父と教育熱心な母によって育てられたアンリに、サッカーの楽しさを教えたのはストリートでのプレー。まるで殴り合いのような荒っぽいゲームのなかで、他の子よりも小さかったティエリ少年は、強さを身につけながら、技術を磨いていった。
サッカーについては非常に厳しい父アントワーヌは、めったに息子を褒めることはなく、そのこともティエリを成長させる要因のひとつともなった。
12歳の時、セミプロのチーム「ヴィリー・シャティヨン」にスカウトされ、すぐにその得点力で多くの勝利をチームにもたらすと、アンリは14歳の誕生日を迎える直前、パリ郊外のクレールフォンテーヌに設立されたINF(国立フットボール学院)の入学試験に合格する。
入学時、技術は荒削りで、戦術理解度なども低かったアンリだが、当時の学院長によれば「サッカーのインテリジェンスが抜群に高かった」ため、飛躍的な成長を遂げていった。
卒業後は、ベルサイユFCでのプレーを経て、以前から目をかけられていたモナコと契約。94年8月31日のニース戦で、アンリのプロキャリアは幕を開けた。
当時のアンリのポジションはウイングであり、自らが点を取るより、FW選手をアシストする方が得意だった。チームの多くの得点に絡んだ彼は、95-96シーズンにリーグの新人王を受賞し、96-97シーズンには早くも初めてのリーグ優勝を経験する。
96年の夏、レアル・マドリーと規則に反するかたちで移籍交渉を行なったことで罰金処分を受けたアンリ。この頃はピッチ上で結果は出す一方で、エリート意識が悪い方向に作用し、チームの和を乱したり、監督ジャン・ティガナに歯向かったりと、問題児の側面もたびたび顔を出した。
そして99年1月、アンリはついにモナコを離れ、国外での挑戦に踏み切る。行き先は、前シーズンのチャンピオンズ・リーグ(CL)で彼と対戦し、その力を認めていたユベントスだった。
意気揚々とイタリアに乗り込んだ21歳の青年を待っていたのは、「守備の負担が大き過ぎた」(本人談)カルチョの厳しい洗礼と、名門クラブゆえの厳格なムード。そのどちらにも馴染めなかったアンリは、力を発揮できず、わずか3ゴールを挙げるに止まった。
すっかり調子を落としていた彼に、イングランドから救いの手が差し伸べられた。救世主は、モナコ時代にアンリをトップチームに引き上げ、その後、名古屋グランパスを経て、アーセナルで指揮を執っていたアーセン・ヴェンゲルだった。
99年夏、「自分の良さを熟知し、自由にプレーさせてくれる」恩師の下でプレーを始めたアンリは、凄まじいキャリアの上昇曲線を描き始める。理想とするアタッキングサッカーの柱にアンリを置き、彼をウイングからCFにコンバートしたヴェンゲルの判断は正しかった。
2シーズン連続で2ケタ得点を記録した後、2001-02シーズンには24ゴールを挙げてプレミアリーグの得点王に輝くとともに、チームに4シーズンぶりのリーグタイトルをもたらしたことで、アンリはクラブ史に語り継がれる英雄のひとりに昇り詰めた。
03-04シーズンには30得点の大台に達して欧州の得点王にもなった彼は、同シーズンに2度目のプレミア制覇に貢献。続く2シーズンでも25得点、27得点とゴールを量産し、トップスコアラーの座を守り続けた。