「バーゲンセール」で移籍したリバプールで欧州王座を制す。
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
今回、9月1日発売のワールドサッカーダイジェストに登場するのは、抜群の運動量と爆発力、そして得点力で黄金時代のリバプールをリードし、ドイツでも大成功を収めたイングランド・サッカーのレジェンドのひとり、ケビン・キーガンだ。
小柄だが鍛え抜かれた身体で相手守備陣を手玉にとり、数々のゴールと勝利を重ねてきたアタッカーは、その気さくな性格で多くの人々から愛されるアイドルでもあった。「マイティマウス」の愛称で親しまれた偉人の輝かしいキャリアを、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
1951年2月14日、ケビン・キーガンはイギリスのドンカスターに生を受けた。
サッカーを始めた頃の憧れのポジションはGK。自らもゴールを守ることを望んだものの、体躯が小さく、すばしっこいキーガンをゴールマウスに立たせようという監督はおらず、彼は“泣く泣く”背番号7をつけて攻撃的なプレーヤーとなった。
キーガンのキャリアにおいては、常に身体の小ささがついて回り、それが原因でコベントリー・シティーの入団テストに落ちた。彼にとってはコンプレックスでもあり、それをカバーするために、足元やヘディングの技術を徹底的に高め、その能力を飛躍的に高めていった。
66年、4部リーグのスカンソープに入団し、ここで右サイドのMFとしてエネルギッシュなプレーで頭角を現わし、チームの勝利に直接的に貢献し続けた。
下部リーグでプレーする若き選手の運命が変わったのは71年。名将ビル・シャンクリーの目に止まり、名門リバプールに引き抜かれた。移籍金はわずか4万ポンドで、後に70年代最大の「バーゲンセール」といわれたほどだ。
71-72シーズンのデビュー戦で開始12分にゴールを奪ったキーガンは、以降、ジョン・トシャックとのコンビで多くの得点と勝利をチームにもたらし、2年目で早くもリーグ優勝に貢献。このシーズンはUEFAカップも制し、ダブルを達成した。
75-76シーズンにも同様に二冠を果たし、翌シーズンはリーグ連覇。そして76-77シーズンには、ボルシアMGを下してチャンピオンズ・カップ(現リーグ)優勝、欧州の頂点に立った。
ボルシアMGの名DF、ベルティ・フォクツとのマッチアップは、歴史に残る名勝負といわれ、その密着マークぶりについて後にキーガンは「(フォクツが)あまりにぴったり私にくっついてくるものだから、私の妻が彼に嫉妬したほどだ(笑)」と冗談まじりに振り返っている。
こうして、リバプールを初めて欧州王者に引き上げたキーガンは、ここで新たな挑戦に打って出る。ドイツ行きだ。数多くのオファーのなかからハンブルクを選んだ彼は、50万ポンドの移籍金を置き土産に、リバプールを後にした。
「お金の問題ではない。イングランドよりもレベルが高いといわれるブンデスリーガで自分を高めたかった」
そう移籍理由を語った彼は、イングランド人が成功するのは難しいといわれたドイツで、いきなりチームにフィットし、加入2年目の78-79シーズンにはブンデスリーガ発足後初となるリーグ優勝をチームにもたらした。
翌シーズンにはチャンピオンズ・カップ決勝で母国のクラブ、ノッティンガム・フォレストに敗れて欧州制覇はならなかったものの、彼自身はコンスタントな活躍ぶりが認められ、78、79年と2連続でバロンドールを獲得している。
今回、9月1日発売のワールドサッカーダイジェストに登場するのは、抜群の運動量と爆発力、そして得点力で黄金時代のリバプールをリードし、ドイツでも大成功を収めたイングランド・サッカーのレジェンドのひとり、ケビン・キーガンだ。
小柄だが鍛え抜かれた身体で相手守備陣を手玉にとり、数々のゴールと勝利を重ねてきたアタッカーは、その気さくな性格で多くの人々から愛されるアイドルでもあった。「マイティマウス」の愛称で親しまれた偉人の輝かしいキャリアを、ここで振り返ってみよう。
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1951年2月14日、ケビン・キーガンはイギリスのドンカスターに生を受けた。
サッカーを始めた頃の憧れのポジションはGK。自らもゴールを守ることを望んだものの、体躯が小さく、すばしっこいキーガンをゴールマウスに立たせようという監督はおらず、彼は“泣く泣く”背番号7をつけて攻撃的なプレーヤーとなった。
キーガンのキャリアにおいては、常に身体の小ささがついて回り、それが原因でコベントリー・シティーの入団テストに落ちた。彼にとってはコンプレックスでもあり、それをカバーするために、足元やヘディングの技術を徹底的に高め、その能力を飛躍的に高めていった。
66年、4部リーグのスカンソープに入団し、ここで右サイドのMFとしてエネルギッシュなプレーで頭角を現わし、チームの勝利に直接的に貢献し続けた。
下部リーグでプレーする若き選手の運命が変わったのは71年。名将ビル・シャンクリーの目に止まり、名門リバプールに引き抜かれた。移籍金はわずか4万ポンドで、後に70年代最大の「バーゲンセール」といわれたほどだ。
71-72シーズンのデビュー戦で開始12分にゴールを奪ったキーガンは、以降、ジョン・トシャックとのコンビで多くの得点と勝利をチームにもたらし、2年目で早くもリーグ優勝に貢献。このシーズンはUEFAカップも制し、ダブルを達成した。
75-76シーズンにも同様に二冠を果たし、翌シーズンはリーグ連覇。そして76-77シーズンには、ボルシアMGを下してチャンピオンズ・カップ(現リーグ)優勝、欧州の頂点に立った。
ボルシアMGの名DF、ベルティ・フォクツとのマッチアップは、歴史に残る名勝負といわれ、その密着マークぶりについて後にキーガンは「(フォクツが)あまりにぴったり私にくっついてくるものだから、私の妻が彼に嫉妬したほどだ(笑)」と冗談まじりに振り返っている。
こうして、リバプールを初めて欧州王者に引き上げたキーガンは、ここで新たな挑戦に打って出る。ドイツ行きだ。数多くのオファーのなかからハンブルクを選んだ彼は、50万ポンドの移籍金を置き土産に、リバプールを後にした。
「お金の問題ではない。イングランドよりもレベルが高いといわれるブンデスリーガで自分を高めたかった」
そう移籍理由を語った彼は、イングランド人が成功するのは難しいといわれたドイツで、いきなりチームにフィットし、加入2年目の78-79シーズンにはブンデスリーガ発足後初となるリーグ優勝をチームにもたらした。
翌シーズンにはチャンピオンズ・カップ決勝で母国のクラブ、ノッティンガム・フォレストに敗れて欧州制覇はならなかったものの、彼自身はコンスタントな活躍ぶりが認められ、78、79年と2連続でバロンドールを獲得している。